彼らは、なにも知らないふりをして、国家のはらわたに潜むあれほど深刻な病を隠し通した。
彼らがそうしたのには、十分な理由があった。というのも、ある種の病は、患者に知らせずに治療する必要があるからだ。
じっさい、自分の病気を知ったことが元で亡くなってしまった人が、たくさんいるのだから。
ーセネカ/人生の短さについて
1953年11月28日、生物兵器の専門家フランク・オルソンは滞在していたホテルの窓を突き破って転落死した。
彼はCIAの極秘プロジェクト「MKウルトラ計画」の責任者シドニー・ゴッドリーブ博士の右腕であり、1951年にフランス南部ポン・サン・テスプリで起きた怪事件への関与も疑われている人物だ。
最終的に安全保障上の脅威と見なされたオルソンは知らぬ間にCIAの標的となっていた。
彼らは国家を蝕む病を隠し通し、致命的と判断されれば誰に知られることもなく速やかに排除しようとする。
その自動的で体系的な手法は時にほころびとなって我々の前に可視化される。
ポン・サン・テスプリの怪事件
1951年8月16日の朝、フランス南部にある人口1万人ほどの小さな町で、ある奇妙な事件が起きた。
地元の郵便配達員のレオン・アルムニエールが町の広場で発狂し、「火あぶりにされている!凶暴な蛇が襲ってくる!」と叫んだ。
その後も同じ体験をした人が続出した。合計で250人もの人が似たような幻覚を見たと訴えた。それが原因でバルコニーや上層階の窓から飛び降りた人などもおり、最終的に7人が死亡した。
地元の病院は発狂した患者で溢れ、町の刑務所に収監される者もいた。多くの被害者が、その後何年もトラウマを抱え、フラッシュバックに苦しめられた。この時、何が起きているのか正確に把握している者はいなかった。
LSDの開発者アルバート・ホフマン博士
その後、スイスのバーゼルからサンド製薬会社の使節団が派遣された。
その中には1938年にLSD(幻覚剤)を発明したアルバート・ホフマン博士もいた。
ホフマン博士は、この事件の原因は「パン」だと発表した。
原因はパン?
パン屋がうっかりして、ひどい幻覚症状を引き起こすとされる麦角菌(ばっかくきん)に感染したライ麦を使ってしまい、それを食べた人々が発症したという。
麦角菌(バッカクキン)とは、バッカクキン科バッカクキン属 (Claviceps) に属する子嚢菌の総称である。いくつかのイネ科植物(重要な穀物や牧草を含む)およびカヤツリグサ科植物の穂に寄生する。
特によく知られる種がC. purpureaで、ライ麦をはじめ小麦、大麦、エンバクなど多くの穀物に寄生する。本種が作る菌核は黒い角状(あるいは爪状で、悪魔の爪などとも形容される)なので、麦角(ばっかく)と呼ばれるようになった。
幻覚剤のLSDはアルベルト・ホフマンによって、麦角成分の研究過程で発見された。ただしLSDは麦角に含まれるものではなく、麦角成分であるリゼルグ酸の誘導体として人工的に合成されたものである。
出典:ウィキペディア
パン職人と麦角菌の罪
当時、多くの人々が製薬会社の専門家の見解に納得した。地元のパン職人ロッシュ・ブリアンに責任をなすりつけたのだ。
もともと麦角菌の毒性は中世イタリアで流行したダンシングマニア(舞踏病)と同じような症状を引き起こすことで知られていた。
かつて、イタリアの町タラント周辺でも似たような事件が定期的に発生しており、作曲家が麦角菌に感染した狂人を揶揄してタランテラ(イタリア・ナポリの舞曲)というテンポの速い曲を作るようになったという説もある。
イタリアの事件を機に穀物の取り扱いに注意するようになり、その甲斐あってかヨーロッパの麦角菌は20世紀に完全に根絶したはずだった。
また不思議と麦角菌の本来の症状を訴える犠牲者は、ほとんどいなかったのである。例えば、必ず発症する乾性壊疽は誰にも見られなかった。
被害者を最初に診察した医師の1人は同じ症状で苦しんだとされるが、この医師も他の患者同様、その日の朝はパンどころか何も食べていなかった。
つまり、菌を吸い込んで空気感染したか、菌が皮膚に付着して接触感染したと見られていた。
CIAとLSD
使節団は調査を終えてスイスに戻るとCIAに連絡し、これまでのようにLSDを提供することはできないと伝えた。
当時、存在をほとんど知られていなかったLSDだが、サンド社はLSDをCIAに提供するだけでなく、専門家を派遣して兵器利用の可能性についても助言していた。
CIAは、このコンサルタントたちにLSDの使い方を教わり、何も知らない一般人を対象に密かに実験していたのだ。
ゴッドリーブ博士とフランク・オルソン
LSDの本格的な実験は、「ミッドナイト・クライマックス計画」などを含む秘密作戦「MKウルトラ計画」で実施された。
CIAの運営する売春宿にやって来た客は知らぬ間にLSDを投与され、監視対象となった。
「MKウルトラ計画」の責任者シドニー・ゴッドリーブ博士。その右腕は生物兵器の専門家フランク・オルソンだった。
オルソンは1951年の夏、「ポン・サン・テスプリ事件」が起きた時、偶然にもフランスを旅行していたSODの科学者たちの1人だった。
CIA資料『ポン・サン・テスプリとF・オルソンのファイル』
1975年、CIAのある資料が明るみに出た。タイトルは『ポン・サン・テスプリとF・オルソンのファイル。SOスパン/フランス作戦ファイル、オルソン含む。機密ファイル。ベルリンへ持参ー必ず処分するよう伝言』というもの。
「SOスパン」というのは、おそらくブリッジ特別作戦(Special Operation Bridge)のことだと思われる。
「スパン」には「ブリッジ」と同じ「橋」という意味がある。フランス語では「ポン」である。
フランク・オルソンとは
- フランク・ルドフル・オルソン
- 1910年7月17日生まれ
- 1953年11月28日没(享年43歳)
- 米国ウィスコンシン州ハーリー出身
- ニューヨーク州マンハッタンで死去
- 職業:細菌学者、生物学者
- 活動年:1943~1953年
- 家族:アリス・オルソン(妻)、エリック・オルソン(長男)、ニルス・オルソン(次男?)
フランク・オルソンは、米国の細菌学者で生物戦科学者。
メリーランド州のフォートデトリック(アメリカ軍生物戦研究所:USBWL)に勤務していた。
フランク・オルソンの死
1953年11月19日、メリーランド州で開かれた会合でオルソンは上司のシドニー・ゴッドリーブ博士に秘密裡に麻薬の一種であるLSD(幻覚剤)を飲まされた。
その9日後、オルソンはニューヨークのマンハッタンにあるホテルスタットラー(2020年閉鎖)の窓から転落死した。
アメリカ政府はオルソンの死を不運な自殺と発表したが、現在では殺人とする説が濃厚である。
シドニー・ゴッドリーブ博士は、CIAのMKウルトラ計画の責任者である。
ロックフェラー委員会によるCIAに関する報告書
1975年に出されたロックフェラー委員会によるCIAに関する報告書では、CIAがエージェント(工作員・諜報員)に対して極秘に薬物実験を行っていたことを認めている。
フランク・オルソンの死はCIAのマインドコントロール・プロジェクト、MKウルトラ計画の最も謎めいた事件の1つである。
オルソンは米陸軍とCIAの職務に従事
オルソンは米陸軍科学兵団で大尉を務めていたが、1942年12月、大学での論文教官だったアイラ・ボールドウィン氏とCIAを代表する化学者でのちにMKウルトラ計画の責任者となるシドニー・ゴッドリーブ博士からお呼びがかかった。
ボールドウィンは生物兵器開発の極秘プロジェクトを指揮するため大学を去ることになり、そのタイミングでオルソンを米陸軍の生物化学兵器の研究施設の科学者メンバーの1人としてスカウトしたのだ。その場所は、のちに「フォートデトリック」と呼ばれた。
ボールドウィンはフォートデトリックで米化学界の重鎮ジョージ・W・メルクや米軍、産業界のパートナーたちと協力し、第二次世界大戦中の1943年から米国の極秘生物兵器プログラムを立ち上げた。
オルソンはペーパークリップ作戦で米国に連行されてきた元ナチスの科学者とともに、エアロゾル化炭疽菌の研究に取り組んだ。
除隊後も民間契約で研究を続けた
1944年陸軍を除隊後、オルソンは民間契約でデトリックに残り、空中生物学の研究を続けた。
1949年、オルソンはハーネス作戦のためにアンティグアで他の科学者たちと空気中の毒素に対する様々な動物の脆弱性をテストした。
1950年には、細菌「セラチア・マルセッセンス(Serratia marcescens)」を掃海艇からサンフランシスコの海岸の霧に散布させ、サンフランシスコの全住民80万人と周辺の8つの都市の住民を対象にした実験「シースプレー作戦」に参加した。
オルソンはたびたびロングアイランド沖のフォート・テリーという陸軍の極秘施設に行き、アメリカ本土に持ち込むには危険すぎる毒素の実験を行っていた。
特殊作戦部門の設立
この時期、軍やCIAの高官たちはソ連の技術的な進歩に頭を悩ませていた。具体的にはソ連が細菌戦についてマスターすることを恐れていたという。
1949年春、そんなアメリカの警戒心はある部署の設立により実体化する。その部署がSOD(Special Operation Division:特殊作戦部門)だ。オルソンはSOD創設から1年も経たぬうちに、この部署の責任者代理となった。
この部署はフォートデトリックに化学兵器の極秘の利用方法を研究する目的で作られた。SODはその情報の機密性の高さから「デトリックの中のデトリック」と呼ばれた。
CIA職員として
米陸軍の民間業者として働いていたオルソンだったが、ある時期からCIAの仕事も請け負うようになっていた。
1952年5月、彼はCIAの尋問プログラム「アーティーチョーク計画」の委員に任命された。
1953年初頭、オルソンが「仕事のプレッシャー」で潰瘍が悪化してSODの責任者を辞任する頃には、彼は正式なCIA職員となっていた。
表向きにはSODを辞任したことになっていたオルソンだったが、軍事基地の内部に隠されたCIAの調査部門として機能してる部署に留まった。
研究所での仕事がオルソンに与えた影響
オルソンは多くの仕事をフォートデトリックの研究所でしていた。そのことが彼の精神に永続的な影響を与えたと彼の子どもたちが主張している。
実験動物の毒殺やガス処刑、拷問を目撃しただけでなく、そのような作業を手伝ったことがオルソンに悪影響を与えたと息子のエリックは考えており、次のように語った。
朝鮮戦争における細菌戦
1953年2月23日、中国は捕虜となったアメリカ人パイロットの2人が「アメリカは北朝鮮に対して細菌戦を行っている」と主張したことを報道した。
これを受け、米国政府は自白した捕虜の何人かに対して反逆罪に問うと脅したが、のちに釈放された捕虜たちは拷問によって引き出された自白であるとして否認した。
1953年7月27日、朝鮮休戦協定が調印された日、オルソンはイギリスにいた。彼はロンドン、パリ、ストックホルム、ベルリンを旅行していた。
朝鮮戦争中に米軍が生物兵器を使用したとすれば、オルソンは知っていたはずである。ひょっとしたら彼は見たこと、やったことを罪悪感から暴露するかもしれない。それは関係者にとって脅威だったに違いない。
国家安全保障上の脅威
ジャーナリストのゴードン・トーマスによれば、オルソンはその後、高度な機密保持資格を持った英国の精神科医ウィリアム・サーガントと面会したとされる。
サーガントは機密を知り過ぎたオルソンを危険視しており、軍事施設への立ち入りを制限すべきだと主張した。
フォートデトリックで10年を過ごしたオルソンはSODの秘密をすべて知っていた。彼は頻繁にドイツを訪れ、フランクフルト、ベルリン、ハイデルベルグといった複数の秘密刑務所での尋問を目撃した。
オルソンを薬漬けに
1953年11月18日(水)~20日(金)にかけてディープクリークの湖畔で「MKウルトラ計画」の主要メンバーたちの半月に一度の「癒しの宴」が予定されていた。
参加メンバーたちは、この宴の席でMKウルトラ計画にも使用され、のちにLSD(幻覚剤)と呼ばれるようになった麻薬の一種を盛られた。
その参加者リストには次の12人の名があった。
①フランク・オルソン
フォートデトリックにある米陸軍生物兵器研究所、特殊作戦部門の科学者。機密事項を知り過ぎたため安全保障上の脅威と判断された「知り過ぎた男」。
②ヴィンセント・ルウェット
特殊作戦部門の責任者でオルソンの上司。
③ジョン・L・シュワブ
SOD(特殊作戦部門)を創設した人物。1953年には研究室長を務めた。
④ジョン・スタッブス
フォートデトリックの職員の1人。
⑤ベンジャミン・ウィルソン
SODのメンバー。
⑥ハーバート・タナ―
フォートデトリックの職員の1人。
⑦ジョン・C・マリノウスキー
フォートデトリックの職員。アルコールを飲まなかったため投薬されなかった。
⑧ジェラルド・ヨネッツ
SODの科学者。
⑨シドニー・ゴッドリーブ
MKウルトラの責任者でCIAの科学者。
⑩ロバート・ラッシュブルック
ゴッドリーブの部下。ゴッドリーブとともに皆が飲んでいた酒を調合した。
⑪A・ヒューズ
CIAの人間だと疑われた。
⑫ヘンリー・ボートナー
CIA諜報員。
薬漬けの影響
翌朝、オルソンは変わり果てた姿で帰宅した。そして、夕食を取ることも子供の世話をすることもなく家族と距離を置いていた。
そして、妻に一言「とんでもない間違いを犯してしまった」と漏らした。
この時には「MKウルトラ計画」がスタートしてから、すでに7か月が経っていたが、プロジェクトの本質(意図・目的)を知る者は20数名だけだった。
11月23日、オルソンと上司のヴィンセント・ルウェット中佐は旅の疲れが残る中、フォートデトリックに出勤した。その時、ルウェット中佐にはオルソンの様子がおかしく、精神的にまいっているように見えた。
治療のためニューヨークへ
1953年11月24日火曜日、オルソンは、いつものように出勤したが、昼前には同僚のジョン・スタッブスを伴って帰宅した。
「研究所のメンバーは錯乱したオルソンが自分の家族を傷つける恐れがあると考えている」とスタッブスが同伴した理由を家族に説明した。
そして、妻に精神科の治療を受けることに同意したと伝えた。
同日、オルソンとルウェット中佐、CIAのロバート・ラッシュブルックは、すぐにニューヨークに飛んだ。
ニューヨークに到着したオルソンとラッシュブルックはCIAの医学博士ハロルド・エイブラムソンに会った。
彼は数年前にオルソンと空中生物学の研究をしていた人物だった。
オルソンの死
1953年11月28日土曜日の午前2時頃、オルソンは宿泊していた「1018A号室」の窓を突き破り、ホテルスタットラー前の歩道に転落した。
ホテルの支配人が駆け寄った時、オルソンにはまだ息があった。彼は何かを呟こうとしたが、救急車が到着する前に亡くなった。
この時、同室のロバート・ラッシュブルックはトイレの便座に座っていた。その後、ホテルのスタッフ(電話交換手)から「1018A号室」からハロルド・エイブラムソン博士の電話番号に電話を繋いだと報告があった。
その短い通話のすべてを聞いていたスタッフによると、同室の宿泊客が「もう彼はいなくなった」と伝えると、電話の相手は「そうか…、それは残念だ」と答えたという。
死亡現場の報告書には、2人の警察官の証言があった。オルソンの事件は、1948年スパイ容疑がかけられた政府高官がニューヨークのオフィスから転落死した「ローレンス・ドゥーガン事件」との類似性が挙げられた。
その後の警察の報告書によると、オルソンはマンハッタンでの最後の夜、ラッシュブルックと同室、ホテルスタットラーの10階の部屋の窓から自らの意志で身を投げ死亡したという。
殺人と不当な死
1975年、ロックフェラー委員会がCIAのMKウルトラ計画の活動を暴露するまで、遺族は「深刻な神経衰弱(ノイローゼ)」がオルソンの死の原因だと思っていた。
同年、政府はオルソンが死の9日前にLSDを投与されたことを認めた。
そして、遺族がオルソンの「不当な死」をめぐってCIAを訴えると発表すると、政府は和解案として125万ドル(のちに75万ドルに減額:現在の価値で380万円)を提示し、遺族はこれを受け入れた。
さらに、遺族はジェラルド・フォード大統領とウィリアム・コルビーCIA長官からの謝罪を受けた。
遺体の不審な点とCIAによる暗殺説
1994年、息子・エリック・オルソンは父親の遺体を掘り起こした。遺族は再度、検死することにしたのだ。この事件については何年経ってもCIAによる暗殺説が囁かれていた。
フランク・オルソンの2度目の検死を担当したのはジョージ・ワシントン大学の法医学教授ジェームズ・スターズだった。
スターズ教授のチームは遺体にあったとされる切り傷と擦り傷を調べたが、そのような傷はどこにも無かった。
1953年、オルソンの死後すぐに作成された死亡診断書には、確かに遺体に切り傷や擦り傷があったと記されていたのだが。
また、オルソンの左側頭部には大きな血腫があり胸には大きな傷があったが、検死チームのメンバーのほとんどが頭部の外傷と胸部の傷は落下中に生じたものではなく、落下前に生じた可能性が高いと結論づけた。
スターズ教授は、この証拠を「殺人を示す厳然たる証拠」と呼んだ。
息子エリック・オルソンの闘い
1994年
1994年、息子のエリック・オルソンは米下院の「政府運営委員会・国家安全保障委員会」の公聴会に出席し、米政府の「冷戦時代の人体実験」について証言した。
エリックは父の突然の謎めいた死がいかに家族に影響を与えたかを語ると、真実をCIAに公表させるための活動に協力してくれるよう議会に訴えた。
1996年
1996年、エリックはマンハッタン連邦地検のロバート・モーゲンソーに事件の再捜査を打診した。
同地検の「未解決事件」を担当するスティーブン・サラッコとダニエル・ビブは、CIAの化学者ラッシュブルックの供述調書とその他の情報を調べたが、大陪審に送るに足る説得力のある事件ではないと結論づけた。
2001年
2001年、カナダの歴史学者マイケル・イグナティフは父親の死を真相を明らかにするために活動するエリック・オルソンの数十年にわたる活動ついてニューヨークタイムズに寄稿した。
エリックは父の死についての法医学的証拠をCIAの暗殺マニュアルの最初のページで見つけた。それは殺人を事故に見せかけるための、もっとも効率的で単純な暗殺方法だった。
「75フィート(約22.8メートル)以上の高さの場所から硬い地面への落下」という方法に則って父は殺害されたとエリックは主張している。
2012年
2012年、息子のエリックとニルスの2人はワシントンD.C.の連邦地方裁判所に提訴し、不特定の損害賠償とCIAが隠蔽したとされる父の死やそれに関連する文書を開示するよう求めた。
しかし、翌年の2013年7月に棄却された。
その一因は1976年に遺族と政府との間で和解が成立したことだ。
あとがき
2017年、動画配信サイトのネットフリックスは、フランク・オルソンの死の謎に迫ったドキュメンタリー『ワームウッド ー苦悩-』を公開した。
本作には調査報道で有名なジャーナリスト、シーモア・ハッシュが登場し、次のように述べている。
「国家安全保障の名のもとに政府は国内の反体制派を特定し、処刑するための仕組みを構築している。フランク・オルソンは、その犠牲者であり彼の死後も隠蔽は続いている」
また、歴史学者のマイケル・イグナティフは次のように主張している。
「私は事実に対してまだ抵抗がある。だが、フランク・オルソンの息子エリックの調査活動が立証したように、CIAのアレン・ダレスやリチャード・ヘルムズ、その他のアメリカ政府の最高レベルに君臨する無名の人物がフランク・オルソンを殺せと命じた、それが事実なのである。CIAはオルソンの死はストレスによる自殺だとでっち上げ、のちに窓から飛び降りたのはLSD入りのカクテルの影響だとした。しかし、LSDが使用されたのはオルソンが知っていることを正確に把握するためだ。それは、メリーランド州にあるCIAのアジトで投与された。この実験によりオルソンが信用できない人物だと判明すると、彼はニューヨークに連れて行かれ、処分された」