不思議な話

【デビッド・ケリーの死因】私はおそらく森の中で見つかるだろう

2003年7月、英国の兵器専門家のデビッド・ケリー博士は物議を醸しているイラクに関するBBCの報道の情報源として新聞に載ったことでメディアの注目を集めていた。

彼は英国政府がイラク戦争を正当化するためイラクの兵器能力に関する文書を都合よく装飾、誇張したのではないかという主張をめぐり政府とBBCの間で起きた論争の主要人物だった。

2003年7月17日水曜日の午後3時すぎ、デビッド・ケリー博士は自宅から散歩に出かけ、翌朝近くの森の中で遺体となって発見された。

デビッド・ケリー

  • デビッド・クリストファー・ケリー(David Christopher Kelly)
  • 1944年5月14日‐2003年7月17日(59歳没)
  • 生物兵器の権威、英国政府でトップの武器専門家
  • 英国防省の防衛微生物学部門の元責任者
  • 1994年~1999年までイラクへ出向し、国連の主任兵器査察官を務めノーベル平和賞にノミネートされた

1984年、ケリー博士は英国防省の防衛微生物学部門の責任者になった。

彼はキャリアの大半を国防省や政府省庁のコンサルタントとして過ごし、専門分野である兵器管理について助言してきた。

ケリー氏は第一次湾岸戦争後の1991年から1998年のあいだ、国連の兵器査察官として働き、ノーベル平和賞にもノミネートされた。

ケリー博士はBBCの情報源だったのか?

2002年、イラクの大量破壊兵器に関する書類、通称「イラク文書」が英国政府から発表された。

その一年後、BBCは文書に記されていた「イラクの化学兵器および生物兵器の一部は45分以内に配備可能である」という主張について報道し、疑問を投げかけた。

英国政府はイラク戦争を正当化するため、イラク文書の内容を都合よく装飾、誇張し世論誘導に利用したのだとBBCは報じた。

ケリー博士はBBCのジャーナリストのアンドリュー・ギリガン氏と非公式でイラク文書について話をしたとされ、この論争の情報源とされた。

イラク戦争で大量破壊兵器の証拠は見つからなかった

イラク侵略後、1400人以上の人員を動員し調査が実施されたが、イラクの兵器計画の証拠は見つからなかった。

それでころか、調査ではイラクが大量破壊兵器の主要な備蓄をすべて破壊し、制裁が科せられた1991年に生産を停止したと結論づけた。

イラク侵略後に大量破壊兵器の証拠が見つからなかったことは、ブッシュ政権(米国)とブレア政権(英国)が侵略を正当化するために故意に情報を操作したという論争を米国や世界中で論争を巻き起こしていた。

ケリー博士は自宅近くの森で遺体となって発見された

ケリー博士は自分がBBCの情報源だという報道がメディアに出回ると、2003年7月15日、外交特別委員会に証拠を提出するよう言われたが、自分はBBCの情報源ではないと主張した。

その2日後の7月17日の午後3時、ケリー氏は妻のジャニスにはいつもの散歩だと言って自宅を出たが、深夜12時近くになっても帰ってこなかったため、家族は警察に連絡した。

翌朝、テムズ渓谷警察はケリーの行方不明を公表して間もなく、ケリー博士はオックスフォード州の自宅近くのハロウダウンヒルの森の中で遺体となって発見された。

ハットン委員会

巷ではケリー博士が死に至るまでの状況について様々な憶測が飛び交った。メディアも注目していたため、政府は司法調査を強いられた。

トニー・ブレア首相は元アイルランド主席判事のハットン卿率いるハットン委員会の下、調査を依頼した。

2004年、ハットン卿は調査結果を発表し、ケリー博士の死は自殺と結論づけられた。死因は切れ味の悪い園芸用ナイフで自分の左手首を切り落としたことによる失血死。つまり自殺したということだ。

調査を裏付ける報告書

ケリー氏は、この報道により世間の信用と信頼を失った。自分の悪評が世間に広まったことで彼の自尊心が傷つけられたことが自殺の主な原因であるとハットン委員会の調査報告書は結論づけた。

ハットン卿はケリー家のプライバシーを保護するため、検死結果と毒物検査の詳細を今後70年間機密扱いにすることを要請した。

しかし、2010年10月、英国政府はハットン卿の評決を裏付ける報告書を発表することで、臭い物に蓋をするようにケリー博士の死に関する出口の見えない憶測と論争に終止符を打とうとした。

ケリー博士の死因についての証拠

2010年10月に発表された報告書には、事件当時ケリー博士の遺体発見現場に立ち会った病理学者のニコラス・ハント博士による所見が含まれている。

ハント博士は検死でケリー博士の左手首の尺骨動脈が完全に切断されているのを発見し、次のように結論付けた。

  • 左手首の傷のある場所と向きは自傷行為の典型的な例に当てはまる
  • ケリー博士が死ぬ直前に持続的な暴行を受けていたことを示す病理学的証拠は見つかっていない
  • 検死や実況見分からケリー博士が遺体発見現場に引きずり込まれたり、運ばれてきたことを示す証拠もない

死亡推定時刻は「7月17日16時15分~7月18日0時15分の間」。手首の傷が死因であることが判明したが、ハント博士は最後に次のことを付け加えた。

「ケリー氏が過剰摂取した鎮痛剤と臨床的に沈黙している冠状動脈疾患の両方の要因が迅速で確実な死をもたらすことに一役買ったのだろう」と。

つまり、ケリー博士は動脈を切ったあとに死亡したが、鎮痛剤を過剰摂取したことと心臓病を患っていたことで、動脈が著しく狭くなっていたという。

このことが、健康な人が死に至るのに必要な失血量よりも少ない量でケリー氏を死に追いやった可能性が高いということらしい。

医師団が死因審問を求める運動を開始

ある医師のグループはハットン卿の自殺評決が不当であると主張し、ケリー氏の死因審問を求める運動を始めた。

彼らは「ハットン卿が死因を考慮して、本来の調査機関の半分の時間しか費やさなかったこと」に不満を述べるだけでなく、ケリー博士が自殺したことを合理的に証明する証拠が不十分であると主張している。

「たったこれだけの証拠でハットン卿と同じ結論(自殺評決)を出す検死官など他にはいない」と医師団は言う。

ケリー博士の死因に関する疑問

さらにケリー博士の死について、次のような未回答の質問がまだあると医師団は言う。

  • なぜ手首を切り落とすのに使われたナイフから指紋が見つからないのか?
  • ケリー博士はコプロキサモール鎮痛剤をどうやって手に入れたのか?
  • なぜ彼の血液と胃からは過剰摂取したとされる量の薬物の成分が検出されないのか?
  • なぜ彼の遺体が発見された木の上を飛んでいた警察ヘリの赤外線カメラは彼を発見できなかったのか?
  • そもそもケリー博士は本当に自殺する気だったのか?

ハットン委員会は、ケリー博士の死についてのさまざまな疑問に答えられなかった。あるいは、故意に答えなかったという見方もある。

2010年9月、この事件の結末が、この国で発生するもっとも重大な誤診の1つになる可能性があるとして医師団は司法長官ドミニク・グリーブに調査の再開を請願した。

しかし、2011年6月、グリーブ氏は医師団の訴えを却下した。グリーブ氏は徹底的に調査したが、死因審問を開くだけの法的根拠を見つけることが出来なかったと述べた。死因審問を開くには高等裁判所の権限が必要なのだ。

2011年9月、医師団の努力も虚しく、ケリー博士の死因審問の請願を却下する書類が高等裁判所に提出された。

なぜ政府は死因審問を命じないのか?

司法長官ドミニク・グリーブは、この件について国会議員に次のように説明した。

  • 私に送られた全ての資料を最も慎重に検討した結果、ケリー博士が自ら命を絶ったという可能性が非常に高いという結論に達した
  • ケリー博士が殺害されたとか、彼の死の裏側には陰謀や隠蔽が渦巻いているといった主張を裏付けるものは何もない
  • この事件を高等裁判所に委ねるだけの証拠や根拠が見つからなかった
  • ハットン卿は「死因審問」と同レベルの調査をおこなっている

死因審問をおこなわないとする政府の決定後、医師団はグリーブ氏に司法長官の辞任を求めた。

ハットン卿は調査が終わってからずっと沈黙を守ってきたが、陰謀論者を非難するためだけに口を開いた。

「私の出した結論は入手可能な事実と専門家により裏付けられている。利害関係のある者の弁護士やメディア報道、捜査にあたった警察官、医学的、科学的な証人のいずれの誰かから殺人を自殺に見せかけるための隠蔽工作や計画に関与したとする情報提供があったのだろうか?」と。

これに対し、死因審問を求める運動のリーダーを務めるスティーブン・フロスト博士は「起きたことの真実を隠し続けることは国家の恥であり、すべての英国市民にとって懸念されるべきである」と述べた。

世論調査会社イプソスのベン・ペイジCEOは2003年のイラク文書をめぐる英国国内の争いは政府と政治家に対する信頼の欠如が原因と述べている。

ケリー博士の死にまつわる様々な陰謀説

ケリー博士の死に関しても古今東西、様々な陰謀説が唱えられている。

MI6による暗殺説

ケリー博士は諜報機関に殺されたと推測する者も多い。陰の世界の裏事情について暴露すれば、どうなるのか見せしめにしたのだというのだ。

誰がケリー暗殺を指示したのかはさておき、実行犯は英国の諜報機関MI6だという説がある。

ケリーがロシアやイラクの亡命者についてMI6に報告する仕事をしていたと考えると、MI6説の信憑性も高まる。

国防省による暗殺説

ケリー博士とイラク調査グループの合同任務はアメリカとイギリスにより企画され、サダム・フセインが吹聴していた大量破壊兵器の倉庫を追跡していた。

ケリー氏は米国防総省と英国防省とつながりがあった。彼はイラクでの経験が豊富でフセイン政権下の生物兵器計画のリーダー、リハーブ・ターハ博士に面会した経験をもつ数少ない人物の一人だった。

イラク戦争終結後、ケリーなら国防省が戦争を正当化しようとした証拠は捏造だったと証明することは出来ただろう。

イラクの諜報機関

ケリー博士はイラクの軍部や情報部にとって目の上のタンコブだった。彼の仕事はフセインを怒らせアメリカにイラクは大量破壊兵器計画を断念していないという印象を植え付けた。

アメリカの侵攻が始まると、イラクはエージェントを使い、侵攻をあおった報復としてケリー氏を殺害するよう命じた可能性も考えられる。

もし、これが事実ならイラクの諜報機関はケリーに報復し、ブレア政権を当惑させただけでなく、アメリカとイギリスのエージェントもケリー殺害に関与しているとほのめかし、不穏な雰囲気を生み出すこともできる。

あとがき

ケリー博士は亡くなる数か月前の2003年2月、ジュネーブ軍縮会議に出席した。その時、イギリス大使との会話中に興味深い発言があったという。

「もし、アメリカとイギリスがイラクに侵攻したら、私はおそらく森の中で見つかるだろう」と。

そして、3月20日イラク戦争が開戦した。

出典:BBCNEWSThe Guardian

関連記事

ポン・サン・テスプリの怪事件とフランク・オルソンの死の謎彼らは、なにも知らないふりをして、国家のはらわたに潜むあれほど深刻な病を隠し通した。 彼らがそうしたのには、十分な理由があった。と...
【MKウルトラ計画】CIAの洗脳実験はまだ続いているのか?今回は、CIAが極秘に行っていたとされる謎の洗脳実験「MKウルトラ計画」について。 これは陰謀論ではなく、正式文書も公開されている...

 

error: Content is protected !!