不思議な話

マリリン・モンローが亡くなった時そこにロバート・ケネディはいたのか?

マリリン・モンローがジョン・F・ケネディ大統領(以後JFKと表記)とその弟で司法長官を務めていたロバート・F・ケネディ(以後RFKと表記)の両方の愛人だったということが彼女の死の数年後に明らかになった。

ケネディ兄弟の愛人だったことが、彼女の死を早めてしまう原因になったのか?

マリリンが亡くなった時、RFKことロバート・F・ケネディが、その現場に居合わせていたという説が存在する。

マリリン・モンローはケネディ兄弟の愛人だった

1962年5月19日、ジョン・F・ケネディ大統領の「バースデーパーティー」がニューヨークのマディソンスクエアガーデンで開かれた。

このパーティーにはそうそうたるメンバーが集まったが、そのメンバーの中には当時押しも押されもせぬトップ女優の座に昇りつめたマリリン・モンローの姿もあった。

モンローは1万5000人以上が見守る中でJFKのために「ハッピーバースデー」を歌い、JFKもまんざらでもない様子で「これほど甘いハッピーバースデーを聴けたら、いつ引退してもいいね」とのジョークを飛ばしていた。

JFKとの別れとRFKとの出会い

これを機に2人の不倫疑惑は深まっていく。マリリンの不安定さに気づいたJFKは怖くなり、彼女から離れた。別れを拒むマリリンにJFKと弟のロバート・ケネディは不安になっていく。

そしてマリリン・モンローの死の当日。この日、RFKが彼女の家を訪れたという説がある。何とかケネディ兄弟との別れ話を丸く収めようとする彼にマリリンは激怒していたと考えられている。

RFKはマリリンに会いに行き、JFKとの関係が終わったことを告げた。しかし事態は意外な展開を迎える。マリリンと兄の関係に介入するうちにRFKは彼女と恋に落ちてしまったからだ。

ケネディ兄弟の裏切り

弟のRFKはパワフルで知性的だった。マリリンはそんな彼に将来への希望を感じたのかもしれない。マリリンはJFKよりもRFKに強く惹かれていった。

しかし、すぐに2人の関係はほころび始める。マリリンはJFKと交際していた時のように、RFKが妻と離婚し、自分と結婚してくれるのではないかとの期待を抱いていたが、RFKにとってはただの遊びだった。

それは彼女の妄想でしかなくRFKにその気はなかった。彼女はケネディ兄弟に一度ならず何度も拒絶されていた。この時の彼女の感情は計り知れない。

マリリンは別れを拒んだ

マリリンは電話攻勢を開始する。RFKの事務所に電話をかけ、秘書A・ノヴェロと何度も話をした。数ヶ月後には、彼女の口調から生気は失われていた。

マリリンは助けを求めていて、誰かと話をしたがっているようだった。それは今で言うネットストーカーのようで、彼女は未練の虜となり別れを拒んでいた。

傷ついたマリリンは自制心を失っていた。兄と同様、弟のRFKもマリリンの脅威に気づいたのだ。薬物に依存して奇妙な行動を取り、頻繁に感情を爆発させるマリリンは彼らにとって予想以上に危険な存在だった。

ロバート・ケネディはマリリンの自宅に行ったのか?

1962年8月4日、マリリンの亡くなった日、RFKは彼女の家を訪れたという説がある。

それはマリリン宅の両隣に住む隣人たちが証言している。彼らはマリリンの家の前に止まったリムジンからRFKが降りてくるのを見たという。

当時のロサンゼルスで、ロバート・F・ケネディを見間違える人はいない。RFKの訪問がマリリンの死の引き金になったと考える者も多いのだ。

ロバート・ケネディの怪しいアリバイ

マリリンが亡くなった日のRFKの行動が二転三転し、疑惑を生んでいる。ケネディ家の友人ジョン・ベイツはRFKが当日サンフランシスコの牧場にいたと証言している。

彼は22時過ぎと翌日の早朝、RFKと食事をとり、ずっと一緒にいたという。だからRFKが牧場を抜け出すのは不可能だと主張している。

しかし、その数年後、家政婦のマレーはマリリンが亡くなった日にRFKが訪ねてきたと証言した。RFKがマリリンに会っている間にマレーは買い物に出てしまったため、彼がいつ帰ったのかは知らないという。

記者会見でケネディ兄弟との関係を暴露しようとした?

マリリン・モンローには名門一家を破滅に追い込む「爆弾」があった。JFKに続きRFKにも捨てられたと思ったマリリンは我を忘れRFKを脅していたという説がある。

記者会見を開きケネディ兄弟との関係を洗いざらい暴露しかねない状況だったという。彼女は関係者に連絡し、月曜日に会見を開くように頼んでいた。実際に会見が開かれていたら大騒ぎになっていたはずだ。

おそらくRFKは冷静に話し合い、彼女を説得するつもりだった。だが追い詰められたマリリンは逆上し、死の当日もRFKと口論になった可能性がある。この時、RFKは激怒し大声が外に漏れるほど声を荒らげて怒鳴っていたという。

組織的な証拠の隠蔽

マリリン宅を最後に訪れたのはRFKと俳優ピーター・ローフォードの2人だとする説がある。ローフォードは、JFKの妹でありRFKの姉パット・ケネディ・ローフォードの夫でありケネディ家の一員である。

8月5日未明、私立探偵フレッド・オターシュはローフォードにマリリンの部屋から彼女とケネディ家を結びつける証拠をすべて回収してきてほしいと依頼された。ローフォードはマリリンが死んだ現場にRFKがいたとオターシュに説明したという。

その後、ローフォードはこの話を否定しているが、この証言が事実なら死亡時刻や遺体の体位など、警察が現場で感じとった違和感の説明がつく。関係者の関与を隠すために誰かが現場に手を加えれば、あのような現場になるというのだ。

ロバート・ケネディは救急車を呼んだのか?

あの夜、RFKがマリリン・モンローの家を訪れると、睡眠薬の過剰摂取で意識を失っているマリリンを発見した。まともな神経の持ち主ならここで救急車を呼ぶのが普通だ。

しかし、救急車は来たものの彼女を乗せて病院へ向かうことはなかった。つぎの瞬間、RFKは自分の置かれている状況が非常にまずいと理解した。ロサンゼルス郊外を走る救急車の中に自分と一緒にいるのは、すでに亡くなっている世界一有名な映画スター。

RFKは救急隊員にマリリンの遺体を移動させ、彼女の寝室を綺麗に片付けさせたのか?

死亡現場の違和感

捜査を担当したロサンゼルス市警のクレモンス巡査部長は現場で違和感を覚えた。現場があまりにも不自然すぎるので、彼はすぐに偽装工作を疑った。

マリリンの死から30年後の取材でクレモンスは当時の様子を語っている。

  • 部屋は綺麗に片付いていて床には何も落ちてない
  • 家政婦のマレーが朝の5時から洗濯していた
  • いくつもの蓋の閉まった空の薬の容器が綺麗に並んでいた
  • 水を飲むコップがみつからない
  • 遺体は受話器を握ってなかった
  • マリリンは「気をつけ」の姿勢で横たわっていた

この事件には不審な点が多い。警察が到着した時に家政婦のマレーは洗濯していた。ただでさえ仲の良かった雇い主が死んだ直後だというのに。朝の5時から洗濯するなんて怪しすぎる。

また、いくつもの容器がフタを閉めた状態で並べられており、すべてが空だった。彼女が飲んだとされる睡眠薬はかなりの量だったが、過剰摂取で意識がもうろうとする中、わざわざフタを閉めて容器を並べるだろうか。

さらに水を飲むコップも見つからない。水なしで大量の薬を飲むことは不可能である。

死亡時刻の疑惑

  • 死亡推定時刻:8月4日20時30分~22時30分
  • 遺体発見時刻:8月5日午前3時50分(午前3時すぎ家政婦が異変にきづく)
  • 警察へ通報:8月5日午前4時25分

マリリンの死亡時刻についての証言もころころ変わり、時系列は滅茶苦茶だった。遺体は放置され、通報までにタイムラグがある。なぜ早く通報しなかったのかと聞くと誰も答えなかった。

のちの取り調べでは、警察は家政婦のマレーを「あいまいで逃げ腰」と記録している。そして、マレーと主治医2人に疑惑の目が向けられた。

彼らの証言は重要な点で食い違っていた。そこで疑われたのが他殺の可能性だった。そして疑惑は様々な憶測を呼んだ。

遺体の状態が死因と一致していない

極めつきは遺体の状態だ。通報時の報告と違い、遺体は受話器を握ってなかった。

また、過剰摂取したはずなのに遺体は「気をつけ」の姿勢で横たわっていた。

睡眠薬の過剰摂取の場合、人は身をよじった姿勢をとる。つまり死因は過剰摂取だが、遺体の状態が死因と一致してなかった。

消えた証拠の謎

マリリンの死の翌日から数週間で数々の証拠が消えた。

  • 通話記録
  • 薬の容器
  • 検死解剖のスライド写真
  • 内臓の組織サンプル
  • 捜査資料

記者が通話記録を調べようとしたがすでに記録は消されていた。FBIのフーバー長官でさえ入手困難な記録を誰かが先回りし手に入れていた。

またベッド脇にあった薬の容器、検死解剖のスライド写真、内臓の組織サンプルが再検査の前に無くなったと監察医の野口は話している。

さらに捜査資料も消える。ロサンゼルスの警察上層部に何者かの圧力がかかっているとしか思えないことが起きていた。彼女の死に関する手がかりをこれ以上追うなと暗に示しているように。

だからこそ様々な陰謀説が生まれるのだろう。当時、捜査が打ち切られた理由はただ1つ。マリリンの死の謎が解明されれば大勢の人間が多くのものを失うからだ。

発見時マリリンは生きていた?

マリリンは遺体で発見されたのではなく、発見時にはまだ息があったという説もある。

発見された時、実はマリリンが生きていて、救急車を呼んだという話が出てきた。

当時、救命措置に当たった救急会社の創設者シェーファーは「マリリンは意識がなかったが、生きていた」と証言している。また救急隊員と隣人も救急車の到着を証言している。

救急隊員の証言

救急隊員のJ・E・ホールは到着時マリリンは生きていたと証言した。

彼女はベッドの上に斜めに横たわっていた。ホールは蘇生措置を開始する。彼女の喉に管を入れると、上手く酸素が循環し血色が戻ってきた。

すると、そこへグリーンソンが現れ、蘇生措置の停止を命じたという。ホールに管を抜くよう指示し、私に任せろと言ったという。

精神科医グリーンソンの疑惑

グリーンソンは注射器を取り出し彼女の胸に刺すと、強く押さえつけて肋骨を折った。ほどなくしてマリリンは死亡したという。「最悪だ。もう少しで救えたのに」とつぶやくとホールは悲しげな表情を見せた。

「救急隊員ホールの証言がマリリン殺害の動かぬ証拠だ」と主張する者たちもいた。今まで語られなかったことを目撃者が証言したのだ。彼は自分の見たものがマリリンの殺害だったと気づき、名乗り出たという。

この衝撃的な証言に対し、一部の伝記作家たちは懐疑的である。心臓を突き刺すほどの大きな注射針を使用したのなら、肋骨が折れるか少なくとも注射痕が残っていたはずだと彼らは反論する。だが、死亡診断書には「注射痕なし」と記されている。

ウソ発見器の検査をパス

伝記作家たちは救急隊員のホールをまったく信用できないと口をそろえて話す。結局、この証言を裏付ける人物は現れず、ホールの言動は売名行為と批判された。

しかし事件の関係者の中でホールだけが「ウソ発見器」による検査を受け、複数回のテストをすべてパスしているのも事実だ。

それだけでホールの証言のすべてを真実だと判断するのは難しいが、彼が真実を話した可能性は否定できない。

あとがき

皆、マリリン・モンローには永遠に黙っていてもらいたい理由があった。殺人をもみ消すもっとも有効な手段は自殺か事故に見せかけることだ。

絶大な力を持つロサンゼルスの映画会社は映画スターが遺体で発見されたとき、隠蔽する慣習があるという。

また、ケネディ兄弟にはロサンゼルス市警の捜査を止めるだけの強大な権力があり、捜査は打ち切られてしまった。だからもうこの事件が殺人事件かどうかは知る由もない。

のちに家政婦のマレーも隠蔽の加担を認めている。彼女は取材のカメラが止まると、椅子に体を沈めてこう言った。

「いつまで隠さなきゃならないのかしら?ずっと黙ってたけど、じつはあの夜、救急車が来たのよ」

出典:真相究明!マリリン・モンロー謎の死

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