不思議な話

【従順さと服従について】悪の凡庸さとミルグラム実験

不服従という言葉がある。不服従とは服従しないことを意味する言葉であり、主に抵抗や反抗を伴う行為のことを指す。

世の中を見渡せば、「おかしな事に対しておかしいと声を上げる」いわゆる不服従とされる様々な活動がある。この日本でも近年、さまざまなデモや抗議活動がおこなわれている。

  • 消費税廃止を訴える抗議活動
  • 緊急事態条項反対を訴える抗議活動
  • 反戦や反原発を訴える抗議活動
  • パンデミック条約反対を訴える抗議活動
  • 選挙における落選運動
  • さまざまな社会問題に対する署名活動

いずれも、政治と社会の現状に対して改善を求めるために抗議の声を上げるものであり、場合によっては体制に対して不服従の意思を示すものである。

欧米やアジア諸国では「不服従運動」が政治を語るうえで欠かすことのできない重要性をもっている。この世界に広く見られる「服従と不服従」という政治現象をどう考えるべきだろうか。

ここでは現代日本人の美徳ともされる「従順さ」からしばし離れ、「従順なこと、服従することが本当に良いことなのか」についてミルグラムの「アイヒマン実験」とアーレントの「悪の凡庸さ」を見てみよう。

ミルグラムの実験

1962年、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムはイェール大学で次の実験をおこなった。

この実験には「教師役」「生徒役」「実験者役」の三人が参加した。教師役が問題を出し、生徒役が正解すれば次の問題に進み、不正解の場合は電気ショックを与えるという実験だった。

この実験はアイヒマンテストアイヒマン実験と呼ばれている。

概要

被験者の教師役にはコネチカット州ニューヘイブンとブリッジポートの在住の性別や年齢、職業も異なる296人の人々が公募で選ばれた。

一方、生徒役を演じていたのは仕込みの俳優だった。実際には電気ショックが与えられていないのに、さも電気ショックを受けたかのように芝居していた。

もちろん、教師役の人たちは生徒と心理学者を演じているのが仕込みの俳優であることを知らない。

実験者(俳優)

実験者役を演じたのはコネチカット州サウスベリーのジョン・ウィリアムズ。

実験者は、この研究は罰が学習に与える影響を調べるものだと説明した。

生徒役(俳優)

生徒役を演じたのはコネチカット州ウエストヘイブンのジェームズ・マクドノー。

教師役(被験者)

生徒役は椅子に体を固定され、手首には電極がつながれている。また、ある単語の一覧表を記憶するといった課題が出されている。

生徒役が椅子に縛り付けられるのを見たあと、教師役は電気ショックを発生させる装置の前に座らされた。

その装置には30個のスイッチが並んでおり、最大450ボルトまで15ボルト刻みで電気ショックを与えられるようになっていた。

教師役は権威に逆らうのか?

実験は一番低い15ボルトの電気ショックから始まった。教師役は生徒役が不正解のたびに15ボルトずつ電圧を上げていく。そして、電気ショックを与えるたびに心理学者から「そのまま続けてください」と指示された。

生徒役は75ボルトでうめき声を上げ、120ボルトで文句を言い、150ボルトで実験の中止を求めた。そして、ついには285ボルトで絶叫した。

実験の目的は、電気ショックにうめき声を上げながら抗議する生徒役を前にして、どんどん電気ショックを強くしろという心理学者の指示に教師役はおとなしく従うのか、それとも逆らうのかを観察することだった。

実験結果

結論からいえば、人は権威からの指示があれば残酷な行為にさえ手を貸してしまうということになる。

ミルグラムにとっての最大の関心事は、いつどのようにして教師役が心理学者の「権威」に逆らうのかという点にあった。

実際、教師役を担当した人々の中には実験を続けることをためらう者も少なくなかった。だが結局のところ、実験の参加者のおよそ3分の2の人々が言われるがままに最高レベルまで電気ショックを与え続けた。

ミルグラムの結論

ミルグラムは自著『服従の心理』でこう結論づけている。「ごく平凡な人であっても、ある権威からの指示がありさえすれば、どんな非人道的な行為であってもおこなう」と。

しかし、いくら心理学者に指示されたからといって、目の前で人が苦しみもがいているのに危害を加え続けられるものだろうか。その指示に対して何の疑問を抱かず、逆らうこともなく。不思議な現象である。

そして、ミルグラムがこのような実験をするきっかけとなったのが、ナチス・ドイツで異民族の大虐殺に関わっていたアドルフ・アイヒマンの裁判だった。

アーレント『悪の凡庸さ』

アドルフ・アイヒマンはナチス統治時代に移送局長を務めた人物でアウシュヴィッツ強制収容所へユダヤ人を大量に移送する指揮を執った。

彼はホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の関係者の一人で、戦後は偽名を使い、南米アルゼンチンで逃亡生活を送っていたが、1960年にモサド(イスラエル諜報特務庁)に身柄を拘束された。

アイヒマンの裁判

翌1961年、アイヒマンはエルサレム(イスラエル)で人道に対する罪などで起訴された。

裁判の証言台に立ったアイヒマンは、しばしば映画で描かれるような極悪非道なナチスのイメージからは程遠いものだった。

ユダヤ人迫害については「大変遺憾に思う」などと語り、自身の行為についても「命令に従っただけだ」と主張した。

哲学者ハンナ・アーレント

この裁判の傍聴席には、哲学者のハンナ・アーレントの姿があった。彼女は戦時中にドイツからフランスを経由してアメリカへ難民として渡ったユダヤ人である。

アーレントは1964年の著書『エルサレムのアイヒマン』に、この裁判の傍聴記録を記している。

当時、この著作には多くの批判が集まった。その理由はアイヒマンを「悪の権化」ではなく、思考停止した、ただの凡庸な人物だと論じたからだ。

凡庸な悪

つまり、「悪」とは思考停止状態の凡庸さからも生まれるという。これがアーレントを一躍有名にした「悪の凡庸さ・凡庸な悪」という概念である。

当時、ナチスを悪の権化として断罪することに躍起になっていたユダヤ人やイスラエルのシオニストたちにとって、このアーレントの冷静な視点は許しがたいものだった。

だが、彼女の「悪」というものに対する冷徹なる洞察は否定できるものではない。

あとがき

アイヒマンは裁判において人々の目を欺くために顔のない官僚としての自分を意図的に作り上げた。つまり、アーレントが裁判で目にしたアイヒマンの姿は死刑を免れるための芝居に過ぎなかった。

しかし、たとえアイヒマンの本性が「悪の凡庸さ」に該当することはなくとも、アーレントの示した洞察は非常に重要である。

ごく平凡な人間が権威に従順に従うことで、とてつもない犯罪に加担することもあり得るのだという彼女の主張はミルグラムの実験により実証されているからだ。

参考:将基面貴巳著/『従順さのどこがいけないのか』、スタンレー・ミルグラム著/【服従の心理】

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