戦後、GHQは経済だけでなく1945年9月〜46年5月までの期間、日本政府にさまざまな指示を出していた。その分野は多岐にわたる。

米国は終戦後の日本のあり方について、ほぼすべての分野に口出ししてきた。だが、そのとき国民には日本政府がただ米国に命令されるがまま動いていただけ、という実態は見えていない。
占領時代、日本は米軍駐留費として多額の費用を支払っているが、このとき米国に費用の減額を求めて追放されたのが「石橋湛山」であり、米国の言うとおりにしたのが「吉田茂」である。
戦後、民のためGHQに抗った政治家「石橋湛山」を見る。
石橋湛山大蔵大臣
日本は敗戦後、大変な経済困難にあった。そんな中、6年間で約5000億円の国家予算の2割〜3割を米軍の経費に充てていた。
このとき、日本政府にはおもに2つのグループがあった。吉田茂のグループと、第一次吉田内閣で大蔵大臣を務め、のちに首相になる石橋湛山のグループだ。
この2つのグループのスタンスには次のような違いがあった。
吉田茂のグループ
占領下だから、文句をいっても仕方がない。なまじ正論を吐いても米国から睨まれたら大変だ。
石橋湛山のグループ
自分たちが正論である。したがって、いうべきことはハッキリと言う。
自主路線と対米追従路線
日米の外交問題において、対米関係をどのように考えるかを示す基本的な考え方が2つある。それが、「自主路線」と「対米追従路線」である。
自主路線
- 定義:自主路線とは、日本が米国からの独立心を持ち、自国の利益を重視した外交を追及する考え方。
- 特徴:自律的な外交政策の追及、国際社会における独自の役割を果たすこと、米国の顔色をうかがうのではなく、独自の判断で外交する
- 例:対米貿易摩擦の際、日本が自国の産業を守るために米国と対峙した・日本もBRICSに参加してみるとか、ASEANなど他の国々との連携を強化するなど多角的な外交する
対米追随路線
- 定義:対米追従路線は、日本が米国との関係を重視し、米国の意向に沿った外交をすること。
- 特徴:日米同盟の重要性を強調する・米国の安全保障上の要求に協力する・日米関係を良好に維持することを優先する
- 例:在日米軍基地の存続を認める・米国の外交政策と協力する
相違点
戦後、日本の外交は、この「自主路線」と「対米追従路線」の2つの考え方が対立し、その葛藤の中を進んできた。
自主路線は柔軟な外交政策の追求を重視する。一方、対米追従路線は日米関係を優先するため、外交政策の柔軟性が制限される可能性がある。
昨今、日本は米国の植民地だと揶揄する人もいる。それは日米関係がそもそも対等ではなく、親分子分的な関係、すなわち対米追従というよりは対米従属的な事象が現れているからだ。
公職追放
ジャーナリストだった石橋湛山は戦前から軍部をきびしく批判していた。戦前、軍部に楯突くことは容易なことではなかった。しかし、戦前にそれができた人物は占領下でもみな堂々と発言していた。
石橋は大蔵大臣時代、GHQが終戦処理費(米軍駐留費)を増額したことに腹を立て、マッカーサーの側近でGHQ経済科学局長であるウィリアム・マーカットに司令部を批判する書簡を送った。
その文面がESS(GHQ経済科学局)の逆鱗に触れたのだろうか。マーカットから、この件について聞かされた吉田茂は湛山の態度に注意をうながした。
こうして、石橋湛山はGHQによって1947年5月16日、公職を追放されてしまう。のちに、この時のことを石橋の側近だった石田博英は次のように書いている。
石橋蔵相が力を入れた問題に終戦処理費の削減がある。当時は国民のなかに餓死者が出るという窮乏の時代にもかかわらず、進駐軍の請求のなかに、ゴルフ場、特別列車の運転、はては花や金魚の注文書まで含まれていた。総額は60億ドルになると記憶しているが、石橋蔵相はあらゆる手をつくして、それを削減した。
『私が終戦処理費の削減を強力に主張したので、それが司令部の憎むところになり、追放を受けたと風説するものがある。しかしそれは誤りだ』石橋先生はこう否定しているが、[私は]この終戦処理費削減問題こそ、石橋追放の原因と信じている。
(中略)
終戦処理費削減などの問題で、日本の立場を堂々と主張してGHQの反感をかったこと、そしてそのようにGHQに反抗する石橋蔵相に国民的人気が集まり、自由党内で重きをなすにいたったことにGHQが危惧を抱いた点にあると私は考えている。
出典:石田博英著「石橋政権・七十一日」
この時、首相だった吉田茂は石橋に対して「山犬に噛まれたとでも思ってくれ」と言ったそうである。また、次のような証言もある。
石橋先生の女婿で外交官の千葉皓氏がある席でケーディス民政局長次官にあったところ、ケーディスが、あの当時、石橋があるシンボルになろうとしたので、われわれとしても思いきった措置に出ざるをえなかったとのべた。
出典:石田博英著「石橋政権・七十一日」
GHQ内の実力者だったチャールズ・ケーディスは石橋湛山が「占領軍に対し日本の立場を堂々と主張する人物」になることを懸念したのだろう。
米国は、米国に楯突く人物があらわれ、国民的人気を集めると困るのだ。その人物が「自主路線のシンボル」になりそうな危険性を察知すると、思いきった措置にでる。重光葵に対してそうしたように、石橋に対しても。
石橋追放の噂が出たとき、彼を恩師と仰ぐ三十数名の議員たちが対応策を練ろうと集まった。しかし、追放決定後に再び招集をかけると、そこに集まったのは石橋の側近の石田氏を入れてわずか3人だけだった。
あとがき
ヒヨるのか、それとも追放覚悟で、あとに続くのか。
何か大きな変化を起こそうとする時、運よく一度のアプローチでうまく行くこともあれば、そうでないこともある。
大衆の為に立ち上がるリーダーが大きな力に押し潰されそうになった時、私たちはそのような人物たちを支えることができるだろうか。
その大きな力は権力やマスコミだけでなく、不確かな情報に踊らされ冷静さを欠いた大衆かもしれない。
「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放されるかもしれないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」
石橋湛山
出典:石田博英著「石橋政権・七十一日」
参考:孫崎享著『戦後史の正体』