いま日本では世代間の対立を煽ったり、人々の信頼を切り裂く分断が進められている。その一つが政府が国民一人ひとりの「自己責任」や「自助」の重要性を唱えていることだ。
政府が主張する自己責任は「国民が身の安全や衣食住などに自分で責任を負い、誰の世話にもなるべきではない」というものだ。
このような意味での自己責任が国内に広まった結果、一般大衆の間にも次のような意見を振り回す人が増えていった。
- 政府や国の世話になったり、迷惑をかけるべきではない
- もっと努力しろ、あなたの頑張りが足りないだけ
しかし、自己責任という言葉は、もともとそのように使われていたわけではなかった。
言葉自体は戦前からあったが、とくに1980年代以降、メディアで取り上げられるようになった。
1980年、実業家の庭山慶一郎氏は『自己責任の論理』という本を発表した。
彼はこの著作の中で安易な消費税の導入に警鐘を鳴らすとともに「政府の自己責任」を次のように問題にしていた。
「政府があれこれ民間に口出ししたり、”一般消費税”を導入して国民から税金をさらに搾り取ろうとする前に、まず政府の側が行政改革を行って自己責任を果たすべき」
本来、自己責任が問われていたのは国民ではなく政府の方だった。
それが現在では「国民は自分の世話は自分でするべき。政府をあてにされても困る」という意味での政府のプロパガンダに利用されてしまった。
いつの間にか自己責任を問われる対象が政府から国民へとすり替えられた。
もちろん、一人ひとりの市民はそれぞれ果たすべき義務を果たさなければならないし、この自分の事は自分でやれ、という「自己責任論」は一見するとごく普通の正論に見えるかもしれない。
とはいえ、社会には自助だけでは生活していけない社会的弱者も存在する。また事故や災害、事件に巻き込まれ、誰もがそのような立場に置かれるかもしれない。
新自由主義的な考え方が社会に浸透すればするほど、諸事情により他人や政府に頼らざるを得ない人々に対して「自己責任を負わない」のはけしからんと誰もが主張するようになる。
英チャリティー機関の調査によれば、「人助けランキング」で日本は126カ国中107位と先進国の中では最下位だという。
誰も他人を助けることのない冷たい社会。それは結局のところ社会の崩壊を意味する。
国が国民に向かって自己責任を唱えた結果、多くの人々が見捨てられる社会になるなら、それは国が日本を破壊しているのと何が違うのだろう。
政治によって歪められたものは政治によって正すしかない。政府の失策によって貧困化させられた自国民を救うために国家予算を使いたくない資本家や政治家、官僚たち。そんな彼らの言い訳として自己責任は機能している。
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