カナダ第19代首相、レスター・B・ピアソン。彼もまた大国の脅威にさらされながらも不服従を貫いた人物だろう。
ピアソンは20世紀後半のカナダで最も偉大な政治家と評される人物であり、カナダ外交史上もっともスリリングなエピソードの主人公でもある。
1965年4月3日、米国のジョンソン大統領がピアソン首相を約1時間にわたって吊るし上げる事件がおきた。
この事件の背景には、前日の4月2日にピアソンがおこなった米国のテンプル大学での北爆(別名:ローリング・サンダー作戦、北ベトナムへの空爆)反対の演説が関係していた。
このときピアソンは演説の内容をホワイトハウスと事前にすり合わせることもなく、ベトナム戦争の早期終結と外交的な問題解決のため北爆停止の必要性を主張した。
それを知ったジョンソンは当然おもしろくない。すぐにピアソンを翌日の大統領別荘での朝食に招いたのだが、その食事中、ジョンソンはピアソンと一言も口をきこうとはしなかった。
すでにベトナムへの軍事介入を開始していたジョンソンはベトナム政策への各国首脳の発言にとくに敏感になっていた。当然ピアソンの戦争に反対する演説にも激怒していたのだった。
ピンと張り詰めたような空気にたまりかねたピアソンは「昨日の私の演説はどうでしたか?」と食後に話しかけた。
するとジョンソンはピアソンの腕をつかみテラスへ連れ出し、口汚い言葉で罵倒し、小一時間にわたり吊し上げた。
北爆は、米軍がベトナムの魚雷艇に攻撃されたとする「トンキン湾事件」をきっかけに始まった報復爆撃である。それをピアソンは遠まわしに批判したのだ。
しかしピアソンがこのような屈辱を受けようとも、カナダの人々に米国との関係を悪化させたと糾弾されてもいないし、みじめな首相として軽蔑されてもいない。
その後もカナダの首相および外務省は「たとえ弾圧を受けようと、米国にモノを言うべきときはいう」という理念を首相が変わっても受け継いできた。
2003年のイラク戦争の際、ジャン・クレティエン政権(第26代首相)は国連安保理の決定がなかったことを理由に最後まで参加を拒否し、あくまで平和的解決を模索すべきと主張した。
カナダは米国の隣国であり、日本よりもその圧力にさらされている。それでも、このような不服従の歴史に支えられている。
その象徴としてカナダ外務省の建物は「ピアソンビル」と呼ばれ、カナダ最大の空港はその名を「トロント・ピアソン国際空港」に改められた。