2011年10月20日、リビアのカダフィ大佐が殺害された。
彼を殺したのは米国の特殊部隊だったという。
その経緯を見ていこう。
カダフィ殺害の経緯
- 2011年2月:カダフィ退陣のデモが発生
- 2011年3月:米英仏の3カ国、およびNATOが軍事介入を開始
- 2011年8月:反政府組織「国民評議会」が首都トリポリとカダフィ住居、政権中枢施設を制圧
- 2011年10月:カダフィ殺害
2011年2月
2011年2月、カダフィの退陣を求めるデモが起きた。
リビア東部では軍の一部も加わり、地域を制圧するなど反政府活動が活発化した。
これに対し、カダフィ政権は配下の勢力に加えて外国人傭兵部隊まで動員し、軍事力で事態の収拾をはかった。
2011年3月
2011年3月、米英仏の3カ国は「多数の市民が犠牲になっている」として軍事介入を始める。
その後、NATO軍も空爆を開始した。だがカダフィは退陣や出国を拒否した。
2011年8月
国民評議会は、NATO軍の支援を受けながら着実に支配地域を拡大する。8月21日にはリビアの首都トリポリの大部分を掌握し、23日にはカダフィの住居や政府中枢施設のある中心部を制圧した。
国民評議会は外国勢力であるNATOと結託して動いていた。反政府組織の国民評議会はグローバリストの手先だったのだ。
だが首都トリポリにカダフィはいなかった。現地では国外逃亡説や国内潜伏説などが飛び交った。そんな中で突然、カダフィ殺害が報じられた。
2011年10月
2011年10月20日、NATO軍の爆撃機がシルト郊外でカダフィ派軍用車輌の一団を発見すると、「市民を攻撃するのに十分な数の武器を所持していた」との理由でカダフィ派に対して攻撃を開始する。
この時、カダフィは近くの下水道の穴に逃げ込んだが、すぐに発見された。カダフィは自動小銃と拳銃を構えながら「息子たちよ、殺さないでくれ」と哀願したが、反カダフィ派部隊は問答無用とばかりに射殺した。
反政府組織「国民評議会」の発表によれば、カダフィの死因は頭部に受けた銃撃とされる。だが、これがどの時点のものなのかは不明である。
リビア革命とカダフィ殺害の真相
- リビア革命勢力の国民評議会は外国勢力の手先だった
- そこにはNATO軍の謀略が存在した
- カダフィを殺害したのは米国特殊部隊
リビア情勢とカダフィ殺害の真相の気になる点は上記の3つ。まず、革命勢力は外国勢力の手先だった。そして、そこにはNATOの謀略が存在したということ。
彼らは勝手な理由でリビアを空爆し、市民を攻撃するのに十分な武器を所持していたという理由でカダフィ派を攻撃し、カダフィを殺害した。
さらに、カダフィを殺害したのは米国の特殊部隊だったということ。マスコミの報道では「反カダフィ派部隊」という表現になっている。
反カダフィ派部隊の正体
「反カダフィ派部隊」の実体は「リビア特殊部隊」だ。
そして、その正体は米国の特殊部隊だった。
彼らの出身はリビアかもしれないが国籍はリビアではなく、軍事訓練を受けたのもリビアではない。米国で特殊部隊員として教育を受けた者たちなのだ。
あとがき
2011年5月、パキスタンでビンラディンを殺害したのも米国の特殊部隊だった。ビンラディンの殺害は全世界へ向けて発信された。
オバマもヒラリーもその模様を熱狂して眺めていた。それは米国特殊部隊による「見世物」だった。
本物のビンラディンは2001年の「9.11同時多発テロ」が発生した年に消えている。グローバリストはビンラディンが生きていることにして、その後も反テロ戦争を展開していたのだ。
関連記事