不思議な話

日本への原発推進に奔走した男たち

日本の原子力開発は米国の意向を反映したものだった。その理由は第五福竜丸の被爆で日本の世論が反原子力・反米に向かうのを阻止することだった。

2011年3月、福島の原発で事故が起きた。放射能の漏洩で一時は東日本全域で人が住めなくなる可能性もあった。そのような危険なものが東日本大震災の前までに54基も建設されてきた。

今回は、地震大国日本に原発が導入される経緯について簡単に振り返ってみようと思う。

原発推進の動きは1950年代に確立された

1950年代、日本経済は高度成長が始まる前で石油が安く手に入る時代だった。

1955年12月に「原子力基本法」が成立し、翌1956年1月には原子力委員会が設置された。

これにより原発推進への流れが本格化するが、それは米国の意向を反映したものだった。

原子力推進の中心人物

  • 中曽根康弘
  • 正力松太郎
  • 柴田秀利(元読売新聞記者・日本テレビ取締役)

1950年代、原子力開発に積極的に関与した人物は上記の3人だった。「中曽根康弘氏」「正力松太郎氏」は米国と深い関係があった。CIAは正力氏に「ポダム」というコードネームを与え、利用していた。

1954年3月1日、米国はマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験をおこなっていたが、その際、風下約137キロメートル地点でマグロ漁をおこなっていた第五福竜丸に放射能に汚染された灰と雨が降りかかった。

3月14日、第五福竜丸が帰港すると、「死の灰」を浴びたとされる乗組員には被爆の症状が現れていた。9月23日には乗船していた久保山無線長が死亡した。

死の灰の成分は公開されず

被爆した乗組員の治療には「死の灰」の成分を知る必要があったが、それが米国側から明かされることはなかった。

米国から医師が派遣されてきたが、それは治療のためではなく調査が目的だった。米国は被爆が原因で病気になったことを認めず、補償額もわずかな金額しか示さなかった。

吉田首相が米国への抗議をためらった結果、吉田政権の基盤を揺るがし、米国への批判が一気に噴出することになる。ここに来て事態の収拾を図るため正力松太郎が動き始めるのだった。

正力松太郎の懐刀はGHQ担当記者

読売新聞のGHQ担当記者に柴田秀利という人物がいた。彼は片山内閣時代に頭角をあらわし、その後は正力松太郎の懐刀として活躍する。柴田氏の著書『マスコミ回遊記』には次のように書かれている。

「第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆します。これを契機に杉並区の女性が開始した現水爆実験反対の署名運動はまたたく間に3000万人の賛同を得て、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。このままほっておいたら営々として築き上げてきたアメリカとの友好的な関係に決定的な破局をまねく。ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々がつづいた。そのときアメリカを代表して出てきたのがワトスンという肩書を明かさない男だった。数日後、私[柴田]は結論を告げた。『日本には昔から毒は毒をもって制するということわざがある。原子力は両刃の剣だ。原爆反対をつぶすには原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、それによって偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない』と熱弁をふるった。この一言に彼[ワトソン]の瞳が輝いた。『よろしい。柴田さん、それでいこう!』彼の手が私の肩をたたき、ギュッと抱きしめた。政府間でなく、あくまでも民間協力の線で「原子力平和利用使節団」の名のもとに日本に送るよう彼にハッパをかけた。昭和30年元旦の紙面を飾る社告を出して天下に公表した」

『柴田秀利著/マスコミ回遊記』

このように読売新聞が中心となり、国内に原発推進プロパガンダともいうべき原子力の平和利用に関する動きが展開されていった。正力松太郎はその後に入閣し、初代原子力委員会の委員会に就任する。

原子力委員会の初代メンバー

1955年末には「原子力平和利用博覧会」が6週間に渡って開かれ大成功を収める。最終的に博覧会の総入場者数は約37万人にのぼった。

翌1956年元旦には原子力委員会が発足し、次のメンバーが委員となった。

  • 湯川秀樹(物理学者)
  • 石川一郎(経団連会長)
  • 藤田由夫(物理学者)
  • 有沢広巳(統計学者)

原発の平和利用とアイゼンハワーの演説

世界に原子力の平和利用が広がったきっかけは、1953年12月にニューヨークで開かれた国連総会でアイゼンハワー大統領がおこなった次の演説だった。

「米国は恐ろしい原子力のジレンマを解決し、この奇跡のような人類の発明を人類滅亡のためではなく、人類の生命のために捧げる道を、全身全霊を注いで探し出す決意を、皆さんの前で、誓うものである」

原発の基礎をつくった中曽根康弘

日本における原発推進の中心人物といえば、中曽根康弘氏である。「原子力を核兵器ではなく平和利用する」という魅力的な動きを取り入れたのが中曽根氏だった。

彼の著書『天地有情』によれば、1954年3月3日に次のメンバーを提案者とする初の原子力予算が衆議院に提出された。

  • 中曽根氏
  • 斎藤憲三(初代科学技術庁政務官)
  • 稲葉修(元法務・文部大臣)
  • 川崎秀二(元・厚生大臣)

原子力研究の補助金が「2億3500万円」となっていたが、その金額は「ウラン235」にちなんだものだった。その後、中曽根氏が中心となり法案が国会に提出され、これにより科学技術庁や原子力委員会が発足された。

原子力の研究費:2億3500万円=ウラン235

あとがき

戦後、正力松太郎が仕掛けた原発推進戦略は大成功を収めた。これには読売新聞の柴田記者の存在も大きかったといえる。

柴田氏はCIAとのつながりもあり、占領下から40年間、米国との密接な関係を活かして日本の政財界と様々な交流をもった人物だった。

最終的に日本テレビの取締役まで登りつめた柴田氏は、晩年の1986年10月、ゴルフに招待されたため米国へ旅行に出かけ、フロリダでゴルフ中に亡くなっている。

参考:『孫崎享著/戦後史の正体』

関連記事

日本の戦後復興と暗躍する米国のスパイ戦後の日本は米国のスパイが暗躍し、方針を決めていたという話がある。 日本はどのような出来事を経て戦後復興を終えたのか。 戦後...
error: Content is protected !!