神聖ローマ帝国時代のウィーン(現オーストリア)で古典派の音楽家として活躍したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
天才は神から与えられた恩恵を手にする代わりに、それだけ多くの敵にも遭遇する。その結果、薙ぎ払うべき敵と認定され、生涯苦しみつづける秀才たちの悲劇も存在するのだろう。
モーツァルトの死因については諸説あり、いまだにその死因は特定されていない。彼を殺したのはライバルだった「サリエリ」なのか、「とんかつ」だったのか。
この記事では、モーツァルトの生涯と死の真相について簡単に振り返ってみる。
- モーツァルトの生涯と死の真相について
モーツァルトの生涯
モーツァルトの略年表 | |
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1756年 | ザルツブルクに生まれる |
1760年 | 4歳の時、父親からハープシコード(チェンバロ)の手ほどきを受ける |
1761年 | 5歳で作曲をはじめる |
1762年 | 6歳から父親とウィーンやミュンヘンで演奏ツアーをおこなう |
1771年 | 15歳の時、ザルツブルク大司教のオーケストラでコンサートマスターを務めた |
1781年 | ザルツブルク大司教と衝突し解雇されたため、収入を求めウィーンに移る |
1782年 | コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する |
1784年 | フリーメイソンのウィーンロッジに入会する |
1791年 | 死去 |
モーツァルトの妻と子
モーツァルトの妻・コンスタンツェ・ヴェーバーは、ドイツ南西部生まれのソプラノ歌手だった。
モーツァルトはコンスタンツェと結婚後、4男2女をもうけたが、成人したのは2人の男子のみだった。
モーツァルトの死後、コンスタンツェはデンマークの外交官で伝記作家でもあったゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚し、ザルツブルクで死去している。
モーツァルトの死んだ年齢
1791年12月5日、モーツァルトは「35歳」の若さで亡くなっている。
この年、モーツァルトは体調を崩していたが、借金もかさんでいたのでフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵から作曲の依頼を受けていた。
この曲がかの有名な「レクイエム」なのだが、モーツァルトはこの曲を完成させることなく亡くなっている。
ヴァルゼック伯爵から提示されていた多額の作曲料をどうしても手に入れたかった妻コンスタンツェは、モーツァルトの友人で作曲家のフランツ・ジュースマイヤーに作りかけの曲を完成させてほしいと依頼した。
モーツァルトの死の真相
モーツァルトの死因に関しては諸説が語られているが特定されるに至っていない。
おもな症状は、「全身の浮腫(むくみ)」と「高熱」であった。
近年、モーツァルトの死因として有名な5つの説を見ていこう。
- 急性粟粒熱
- 連鎖球菌と合併症による死亡説
①急性粟粒熱
ウィーン市の公式の記録では、モーツァルトの死因は急性粟粒熱(きゅうせいぞくりゅうねつ)だったとされている。
しかし、具体的には高熱と発疹が原因で亡くなったと書かれているだけで、なぜそうなったのかは記されていない。
粟粒熱とは、1485年に登場しイングランドとヨーロッパ各地を襲った原因不明の謎の疾患で急激に発症し数時間のうちに死に至ることもあった。
また、この疾患は1551年以降現れていないとされているため、モーツァルトの死因が急性粟粒熱だったのかどうかの真偽は不明である。
粟粒熱の症状は以下のとおり。
- 寒気による震え
- めまい
- 頭痛
- 疲労感
- 首・方・四肢の激痛
- 発熱と発汗
- 脱水症状後、精神の錯乱・脈拍の上昇・のどの渇き
- 動機・心臓の痛み
②連鎖球菌と合併症による死亡説
連鎖球菌と合併症(リューマチ熱・腎不全)による死亡説は、現在モーツァルトの死因として一番有力視されている説である。
簡単にいってしまえば、モーツァルトは風邪をこじらせて合併症を引き起こし、死に至ったと考えられているということだ。この説は2009年オランダのアムステルダム大学の研究チームが発表したものだ。
連鎖球菌は細菌の総称であり、顕微鏡で観察すると「連なった鎖」のように見えるため、このように名付けられた。連鎖球菌には肺炎球菌も含まれており、喉の炎症を引き起こす「風邪の一種」である。
モーツァルトはこの「連鎖球菌咽頭炎」を発症しその合併症として「リウマチ熱」を引き起こしていたと考えられている。
リウマチ熱 | |
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特徴 | 関節・血管・神経・心臓に炎症を起こす |
症状 | 発熱・頭痛・胸痛・倦怠感 |
また、モーツァルトは浮腫(むくみ)により身動きが取れなくなるほど体中が膨らんでいたが、これは炎症により腎不全を併発していたからだと考えられている。
腎不全になると、腎臓の働きが低下し老廃物を排泄できなくなるため、体内に毒素をため込み全身が膨れ上がってしまうのだ。
さらに、ウィーンの公式記録を調べてみると、モーツァルトの死亡した年には同じ浮腫(むくみ)の症状で死亡した人たちが急増しており、一般的な死因の一つとされていた。
③とんかつ(ポークカツ)説
モーツァルトを殺した犯人は「とんかつ」だとする説も存在する。彼が「生焼けの豚肉(ポークカツ)」を食べて死亡したというのである。
モーツァルトが死亡した時、家の中は腐敗臭に満ち、彼は人とは思えないほど膨らんでいた。確認されている症状から、死因は「旋毛虫症(せんもうちゅうしょう)」とする説が浮上してきた。
モーツァルトは豚肉が大好物だった。旋毛虫はよくブタの内部などに住み着き、しっかり火を通さないと簡単には死滅しない。
このトリキネラ属の寄生虫が特定されたのは1860年だったので、モーツァルトの担当医たちは知るよしもなかった。もし知っていたとしても、当時の薬ではこの症状を治療することは出来なかったはずである。
毒殺を疑う手紙
モーツァルトと「とんかつ」にまつわるエピソードは、豚肉に潜む寄生虫のことだけではない。当時、モーツァルトが妻に宛てて書いた手紙には以下のように記されていた。
「私に嫉妬する敵がポークカツに毒を入れ、その毒が体中に回り、体が膨れて、身体全体が痛んで苦しい」
1791年7月、モーツァルトは自分が「アクア・トファーナ」と呼ばれる当時流行していた美白用の化粧水で毒殺されかけていると考えていたようだ。
この化粧水には「亜ヒ酸(ヒ素)」が主成分として使われており、毒であることは違いなかった。しかし、モーツァルトが亡くなった時、ヒ素毒の症状が見られなかったため、この毒が死因と断定されることはなかった。
もし、ヒ素が使われたなら吐き気、嘔吐、下痢といった症状がモーツァルトを襲い衰弱死したはずである。
④フリーメイソン説
死ぬまでの最後の数年間、モーツァルトは「フリーメイソン」に入会していた。
彼はメイソンのウィーン支部にとって扱いづらい厄介な存在だった。彼は音楽の天才であると同時にかなり猥褻(わいせつ)なユーモアを使いこなす達人だったからだ。
名曲『レクイエム』を生み出すような内面的な繊細さを持つ反面、『K.231 俺の尻をなめろ』という一部の者たちが喜ぶようなとても品の良い曲も作っている。
聞くところによると、モーツァルトが作曲した『魔笛』にはフリーメイソン内部の秘密を暗示する多くの要素が含まれているとされ、組織を苛立たせていたという。
このまま放置しておけば、彼特有のユーモアでそれ以上の機密事項をリークされかねないと判断した組織が素早く手をうった可能性も考えられるのだ。
興味深いのは、モーツァルトが生前に完成させた最後の作品が『カンタータ フリーメイソンの喜び』だったことである。
⑤サリエリによる毒殺説
当時のウィーンの音楽界には、おもに「ドイツ派」と「イタリア派」の2つの派閥が存在した。モーツァルトとサリエリはそれぞれの派閥のリーダーだった。
たしかに2人は激しいライバル関係にあったが、個人的には不仲ではなく、ウィーン時代には仲良くやっていたようである。
最初に毒を盛られたと言い出したのもモーツァルト自身であるとされる。モーツァルトは死の直前で錯乱していた。
当時、ウィーンでモーツァルトの敵となるのは誰から見てもサリエリしかいなかったため、この都市伝説的な噂はまたたく間に拡散されていった。
夫に先立たれた未亡人コンスタンツェは、この馬鹿げた噂に嫌悪をあらわし、のちに息子のフランツ・モーツァルトをサリエリのもとで学ばせている。
犯人はサリエリだと疑っていたら、息子を夫の仇のもとへ通わせることなど出来ないはずである。
しかし、それでも非難は消えず、陰で嘲笑されつづけたサリエリは深く傷つき、この噂に死ぬまで悩まされていた。
1823年、サリエリは認知症で入院することとなり、1825年にウィーンで死去した。享年74歳であった。
あとがき
亡くなったモーツァルトが発見された時、彼の身体はブクブクと風船のように膨れ上がっていた。当時、彼を検死した医者たちも、そのおぞましい状態にさぞや困惑したことだろう。
晩年、認知症で病院に入っていたサリエリは施設内を徘徊し「モーツァルトを殺したのは私だ!」と叫ぶことが日課になっていた。
死の直前までモーツァルトが膨らまし続けたのは自分の体だけでは無かった。膨張しすぎた噂話や誹謗中傷はときに人の魂を破壊する。
悲劇の主人公は、生涯に渡り膨らみすぎた噂話に翻弄されたあげく、ついには破裂してしまったサリエリなのかも知れない。