不思議な話

葉隠と日本人に根付く間違った忠誠心

江戸時代に書かれた思想書『葉隠』はがくれは、近年ではビジネス書としても人気が高く、武士道精神のバイブルとして再び、脚光を浴びている。

そして古代中国から渡ってきた「諫言」かんげんの思想は、この葉隠の中にも生きている。

日本に入ってきた諫言は、どのように姿を変えていったのか。ここでは葉隠の中に息づいている諫言について見ていくとしよう。

山本常朝

『葉隠』の著者の山本常朝やまもとつねともは、1659年に佐賀藩士・山本神右衛門重澄やまもとしんえもんしげすみの末っ子として生まれた。

常朝は肥前国ひぜんのくに佐賀藩当主・鍋島光茂なべしまみつしに仕えていたが、光茂が1700年に死去すると出家した。

その後、隠遁生活を送りながら青年藩士・田代陣基たしろつらもとと口述筆記で完成させたのが葉隠である。

太平の世と武士道

「武士道」を論じたとされる葉隠が執筆された時代は、「関ヶ原の戦い」から一世紀以上が経過した「太平の世」だった。

は兵士としての役目を終えており、平和な時代の「役人」として生きていた。著者の常朝自身も戦場で戦った経験はなかった。

戦後の日本を代表する作家である三島由紀夫は葉隠に心酔し、そこに人生哲学を見出し、『葉隠入門』という本まで書いている。

葉隠にみる忠誠心

「武士道と言ふは、死ぬ事と見つけたり」の一文がクローズアップされがちな『葉隠』だが、葉隠の内容で気になる部分は主君への絶対服従的な忠誠を説いている点である。

「潜(ひそ)かに申し上げ、御請(おう)けなされざる時は、力及ばざる儀と存じ果て、いよいよ隠密(おんみつ)致し、色々工夫を以って又は申し上げ申し上げ仕(つかまつ)り候へば、一度は御請けなさる事に候」

出典:山本常朝・述/渡辺誠・編訳『抄訳・葉隠 組織人としての心得を学ぶための百言百話』

諫言とは「目上の者が間違えているとき、直接指摘してこうあるべきと忠告すること」を意味する。

主人の至らない点や間違っている点が露見しないように内密に諌めれば、一度は主人の耳をこちらに向けさせることも出来るだろう、と言っていてパッと見は現代人も頷けそうである。

しかし、それでもなお忠告がはねつけられた場合は徹底して主人の味方となり、その悪しきところが世間に知られぬように努めなければならないとも言っている。

捻れた忠誠心

主君が愚かであればあるほど、家臣が諫言して忠誠心を示すチャンスが増える

そもそも主君が名君であれば賢明な判断をするので、諫言する機会もそんなに多くない。そして、諫言する機会が少なければ家臣が忠誠心を示すチャンスも少なくなる。

だから家臣の立場からすれば、主君がとんでもなく愚劣で無能、暴虐非道なタイプであればあるほど、かえって望ましいという奇妙で屈折した考え方になっていく。

このようなねじれた忠誠心を良しとするのは、家臣の忠誠心を向ける対象が主君個人であり、その他のすべての人々にとっての全体の利益ではないからだ。

儒教と葉隠における忠誠心の違い

  • 葉隠:主君が忠告を聞き入れなくても家臣は無限に忠誠心を示す義務が生じる
  • 儒教:主君が忠告を聞き入れない場合、家臣は主君の元を去ってもよい

葉隠は、あくまでリーダー個人への忠誠を問題にしている。これと似て非なるものが古代中国の「儒教」である。

儒教も葉隠のようにリーダー個人への忠誠を問題にしている点では同じだが、その大きな違いは「諫言に失敗した場合、家臣は主君の元を去っても良い」という点である。

ただし、この考え方の根底には、主君は主君なりに家臣に対しての義務を負っている、という考え方があるからだ。

一方、葉隠が想定する「主君」は家臣に対して何の責任も負ってはいない。その結果、家臣には無限に忠誠心を示す義務が生じることになる。

葉隠が想定する家臣には「発言」することが求められるが、「離脱」の機会はないということになる。

主君の無能さを隠すため

家臣は愚かな主君に忠誠心を示すために「発言=諫言」し、無限に努力すべきだと葉隠は主張する。

しかし、家臣が発言する目的は主君がより優れた判断や行動を取るよう手助けすることではない。家臣が諫言するのは、主君の愚かさや無能さが世間にバレないように隠すためなのだ。

主君がダメなリーダーだという悪評が世間に広まらないように、諫言は陰でコソコソと行うべきだという。ここには、悪い主君をより良い主君にしようとする意図はない。

むしろ権力が腐敗し、堕落していくのをひたすら隠し通そうとする論理に他ならない。日本の政治思想的な伝統には、このような考え方があることを知っておいてもいいだろう。

日本人に根付く間違った忠誠心

私達は葉隠が論じる忠誠心には注意する必要がある。なぜなら、葉隠の忠誠観は悪質なリーダーによる支配を忠誠心の名の下に存続させる可能性があるからだ。

現代日本では三島由紀夫の本なども含めて『葉隠』を題材とした処世術やビジネス書などが広く出回っている。

葉隠や、その解説書を読んだことはなくても、そのようなものの考え方は日本人の間で脈々と受け継がれている。

責任者の延命を図る「トカゲの尻尾切り」

それを象徴する事象として「トカゲの尻尾切り」というものが各所で起きている。

どんな不正や汚職があっても、現場で働いていた人々が責任を取らされ、それらの人々を監督する立場にある最高責任者が責任を問われることがない。

現場で働く人々が上司に責任の追及がおよぶのを防ぐため、すべての責任を被ることで事態の収拾を図るのだ。

諫言の本来の意味

この「諫言」という言葉は政治や経済の世界でしばしば語られているが、この言葉が何を意味しているのか正確に理解する必要がある。

本来、諫言とはリーダーの誤りを諌める忠告を意味していた。そして、過ちを改めないなら、リーダーへの忠誠義務は消滅することも含んでいた。

ところが、日本ではリーダー個人への忠誠義務が強調された結果、諫言はリーダーの過ちを誤魔化す意味でも使われるようになっている。

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