中世の時代、ヴェネチアには「黒い貴族」が存在した。彼らは地中海世界を経済的に支配していた。
だが、16世紀の大航海時代に入ると、地中海貿易の重要性が低下した。新大陸から大量の金銀が流入してきただけでなく、オスマン帝国の発展により東方貿易がやりにくくなったからだ。
これに伴い、黒い貴族は新たな草刈り場を求めヨーロッパ内陸部に移動した。同じ時代、彼らはイギリスやフランスをはじめヨーロッパ各地に散らばったが、その中心はオランダだった。
オランダとアムステルダム
アムステルダムの発展 | |
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13世紀 | アムステル川の河口にダムを築き、町がつくられた |
16世紀 | アムステルダムは海運貿易の港町として欧州屈指の都市へと発展 |
もともと小さな漁村だったアムステルダムは歴史の中で大きく発展していく。
13世紀にアムステル川の河口にダムと町が築かれると、16世紀には海運貿易の港町として欧州屈指の都市へと発展した。
このアムステルダム発展にも黒い貴族が関わっている。
オランダ独立戦争
オランダ独立戦争 | |
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1568年 | オランダ独立戦争(80年戦争)が勃発 |
1648年 | ウエストファリア条約(ミュンスター条約)締結でオランダは独立を勝ち取る |
15世紀末、オランダはスペインの植民地となる。スペインはカトリック国家でオランダはプロテスタント教徒が多かった。
オランダ植民地化の実体はカトリックによるプロテスタントの支配だった。だが、カトリックに支配されることを拒んだオランダ人たちは立ち上がり、1568年に独立戦争が始まる。
16世紀から17世紀前半にかけて、オランダは独立戦争の時代だった。カトリックの多かったネーデルラント南部10州は独立戦争から離脱し、結局、独立を勝ち取ったのは最後まで戦い抜いたプロテスタントだった。
黒い貴族 その悪魔的ネットワーク
17世紀における黒い貴族の動き | |
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16世紀 | 黒い貴族は欧州内陸部へ移動した |
17世紀 | 黒い貴族はヨーロッパに東インド会社を設立 |
1600年:イギリス東インド会社設立 | |
1602年:オランダ東インド会社設立 | |
1664年:フランス東インド会社設立 |
17世紀、黒い貴族はヨーロッパ各国に東インド会社を設立した。近代史の背後には東インド会社という「悪魔的ネットワーク」が存在する。
彼らは世界中で戦争を引き起こし、一般人を虐殺した。
オランダ東インド会社
1602年、黒い貴族は世界初の株式会社であるオランダ東インド会社を設立する。
しかし、「会社」とは名ばかりで、その本質は「条約締結権」や「軍隊の交戦権」、「植民地の経営権」などの特権が与えられた「国家」だった。
オランダ東インド会社には上記のような様々な特権が与えられ、アジアでの交易や植民を推し進め、一大海上帝国を築いた。
イギリス東インド会社
近代史における最強国家「大英帝国」の実体はイギリス東インド会社である。1600年、黒い貴族はイギリス東インド会社を設立し、大英帝国の名のもとに世界侵略を乗り出した。
イギリス東インド会社は1870年半ばに解散したことになっている。だが、組織は「300人委員会」に姿を変え、今もなお存在していると元英国諜報部員だったジョン・コールマン博士は主張している。
そして、その集団は今でも背後から世界情勢を操っているという。
フランス東インド会社
1664年、黒い貴族はフランスにも同じ組織を設立した。初代長官はフランソワ・ガロン。彼はオランダ東インド会社に30年以上在籍し、「平戸のオランダ商館長」や「台湾行政長官」などを歴任した。
江戸時代の日本は鎖国していたが、オランダとだけは交易していた。そのオランダとは黒い貴族が実権を握るオランダ東インド会社のことだ。
この時すでに黒い貴族は江戸時代の日本に照準を合わせていたことがわかる。
オランダ東インド会社とアムステルダム銀行
1609年、黒い貴族は「アムステルダム銀行」を設立した。これはオランダに設立された北欧初の公立銀行だとされるが、「公立」というのも名ばかりだった。
アムステルダム銀行は世界初の為替取引銀行であるヴェネチアの「リアルト銀行」をモデルに作られたとされる。ちなみに、ヴェネチアの銀行は黒い貴族の支配下にある。
もっと分かりやすく言えば、オランダが他国の銀行を模倣して作ったのではなく、オランダにやってきた黒い貴族が使い勝手のいい自分専用の銀行をオランダに作ったということ。
このような流れは以下のように続いていく。
↓オランダ(アムステルダム銀行)
↓
イギリス中央銀行(イングランド銀行)
↓
アメリカ中央銀行(FRB)
↓
欧州中央銀行(ECB)
各国の中央銀行は裏で全部つながっている。主要な銀行のバックはすべてユダヤである。
黒い貴族によるオランダ経済支配
米経済学者のキンドルバーガーは著書『熱狂、恐慌、崩壊』でアムステルダム銀行と東インド会社がまったくの別会社であるかのように述べているが、両社は黒い貴族が経営している会社である。
- オランダ東インド会社:黒い貴族が戦争ビジネスと略奪ビジネスする会社
- アムステルダム銀行:黒い貴族のビジネスに資金提供する銀行
さらに、当時のオランダの経済情勢については、アムステルダム銀行とアムステルダム市が設立した銀行をこれまた別の会社であるかのように記しているが、この2つの銀行も黒い貴族の支配下にある。
- アムステルダム銀行:振替銀行・為替銀行
- アムステルダム市が設立した銀行:貸付銀行
いっけん別々に見えるこれらの会社の背後に黒い貴族が存在し、オランダ経済を自由にコントロールしていた。
現金ナシのビジネスが経済感覚を麻痺させる
また、キンドルバーガーは上記の2つの銀行が「商人たち自らの信用で商品が買えるように仕向けた」とも書いている。
信用で商品が買えるということは、現金がなくてもビジネスができるということ。現代風に言えば、「空売り」や「空買い」のようなものだ。
借金でギャンブルする。それは正常な経済感覚を麻痺させる。黒い貴族はオランダ商人たちに現金ナシのビジネスを仕向けることで一攫千金のカネの亡者を作り出した。
バブル経済を仕掛ける者たち
バブル経済の背後には、仕掛け人が存在する。その見えない集団の動きは、その後の歴史の中で何度も繰り返されることになる。
1633年~37年にかけて、黒い貴族はオランダで「チューリップ・バブル」を仕掛け、バブル崩壊へと導いた。
チューリップ・バブルとは「チューリップの球根取引に関するバブル経済の崩壊」のことである。その背後には、トルコのユダヤ勢力とオランダのユダヤ勢力が存在する。
17世紀になり、オスマン帝国(トルコ)のユダヤ人によりオランダにチューリップが持ち込まれた。当時、このチューリップの球根に人々の人気が集中し、異常な高値がついた。
チューリップ・バブル
『チューリップ・バブル』の著者で作家のマイク・ダッシュによれば、1637年、フランソワ・コスターというオランダ商人は、たった12個のチューリップの球根に6650ギルダーもの大金を支払ったという。
当時の家族全員を養うのに300ギルダーあれば十分だったことを考えると、とてつもなく高い買い物である。
さらに驚くのはコスターが栽培目的ではなく、球根を左から右へと流して利益を上げる投機目的だったことである。
また、チューリップ・バブル経済のピーク時には現物なしで取引が行われていた。現代でいえば「デリバティブ取引」と同じようなものである。これは当時では考えられないことだった。
バブルで国家経済を破壊
バブル経済の崩壊は国家経済、国民生活を破壊する。
多くのオランダ人がこの取引で一山当てようと考えていたが、その読みは外れた。取引から1週間も経たないうちに球根の価格は急落し、数日のうちに10分の1まで落ち込んでしまった。
1637年2月末には長者番付に名を連ねていた者やチューリップ投機に熱を上げていた人々も相次いで破産していった。多くの人々が信用取引により抱えた借金を返済できずに、取引相手に訴えられ裁判にかけられた。
バブルを利用し運河建設へ
オランダ経済は1630年代に入ると目覚ましい回復をみせた。アムステルダムで売買された東インド会社の株価は1630年~39年の間に2倍になったが、その大半はバブル崩壊後の1636年以降のものだった。
旅客を運ぶ「運河」の建設は1636年から始まった。この計画のベースにはヴェネチアの運河建設があり、アムステルダムはヴェネチアのコピーとして都市建設がなされた。
彼らはチューリップ・バブルでオランダ人から資金を吸い上げ、それを運河計画に投資した。運河による物流ネットワークの構築はオランダ経済の爆発的成長を生み出す巨大なエンジンとなった。
チューリップ・バブル崩壊
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アムステルダムの運河建設
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爆発的な経済成長
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黒い貴族が大儲け
このオランダ経済の躍進により、黒い貴族は大儲けした。当時のオランダは黒い貴族が一人勝ちするためのゲーム盤となっていた。この流れはすべて彼らの戦略である。
あとがき
彼らがバブルを作り出し、潰し、利益のすべてを持っていく。最後に残るのは草も生えない荒地のみ。それは彼らの彼らによる彼らのための経済だ。
ユダヤ金融資本は一攫千金の儲け話を作り出す。そこには単純な心理学が存在する。人間の心の奥底には「楽して儲けたい」という射幸心が存在し、彼らはそれを見逃さない。
いつどこでバブルが起きようと、それを作り出す手法は変わることがない。我々が自らの射幸心を自覚し、それを支配層に握られていることに気づかなければ、いつまで経っても世界は彼らの意のままである。
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