シミュレーション仮説とは、我々の生活しているこの世界には実体がなく、誰かが作ったコンピューターシミュレーションの中であるという説だ。
そのシミュレーション内にいる者は、この世界が作りモノなのかどうかを見分けることが出来ない。
そもそも、この仮説は思考実験であり、オカルトでも都市伝説でもないのだが、不思議要素が満載なのだ。
今回は「シミュレーション仮説」に関するエピソードをいくつかご紹介する。
ニック・ボストロムの主張
スウェーデン人の哲学者ニック・ボストロムは、「我々が生きているこの世界はコンピュータシミュレーション(仮想現実)の中である」という仮説をたてた。
彼の主張は以下の3つ。
- 知的文明は仮想現実を作れない
- 知的文明は技術があったとしても仮想現実に興味がない
- 我々は誰かの作った仮想現実の中で生きている
ボストロムは、この3つ目の可能性が高いと言っている。
イーロン・マスクも仮想現実について言及
イーロン・マスクは、私達の世界が仮想現実ではないという可能性は100万分の1に過ぎないと語っている。
プラトンの洞窟の比喩(イデア論)
古代ギリシャの時代では、「現実は幻想である」という理論を唱える人もいた。
古代ギリシャの哲学者プラトンが考えた話に「洞窟の比喩」というものがある。
「プラトンの洞窟の比喩」の話をします。
A.炎に揺れる影絵しか見たことのない生涯奴隷
B.影絵の仕組みを知った人
C.洞窟の外に出て行った探究者
コロナ騒動に当てはめると、貴方は今どの役ですか? pic.twitter.com/vo9EaVC0Xq— kaede (@Jita37) May 15, 2020
真っ黒な洞窟の中に壁の方を向いたイスがあり、その後ろには人が通れるような簡単な橋が架かっていた。
そのイスには、生まれた時から洞窟で育てられた人間が縛り付けられていた。
イスは壁しか見えないように固定されていて、彼は一度も他人と接触せずに生きてきた。
そんなある日、その洞窟の橋を利用して物を運ぶ人間が現れた。
洞窟の中は真っ暗で足元も見えない。
そこで、橋を利用する者たちは明かりを灯すことにした。
すると、壁には影が映り、拘束されていた人間ははじめて影を目にすることになる。
その後、イスに拘束されていた人間は影をどう認識するのか?
私たちからすれば、壁に映っている影は現実のコピーだが、拘束されている者から見れば、影が現実であり、この世のすべてと認識する。
つまり、我々人間は知覚できる存在を現実として考え、知覚できない事を空想として捉えているという事なのだ。
この説はあくまでも比喩だが、様々な解釈があり、様々なモノに当てはめてみることができる。
水槽脳仮説
ヒラリー・パトナム氏は仮想現実において「水槽脳仮説」というものを提唱している。
彼は、2016年に亡くなったアメリカの哲学者で、多くの思考実験を行ったことでも有名である。
水槽の脳とは、いわゆる「シミュレーション仮説」の1つで、自分が経験している事は、実はコンピューターにつながれた水槽に浮かぶ脳が経験している仮想現実かもしれないというもの。
「今見ているものや、触っている感覚も実はコンピューターが脳に送っている情報なのでは?」とパトナム氏は考えた。
胡蝶の夢
中国の思想家・荘子のエピソードに「胡蝶の夢」というのがある。
つまり、「夢と今見ている世界のどっちが現実か」または「蝶と人間のどちらが本当の自分なのか」ということであり、証明しようのない問題である。
現代の科学をもってしても、「夢」のメカニズムはまだ解き明かせていない。
夢と現実の区別、それがシミュレーション仮説の原点であり、頂点でもあるのだ。
2重スリット実験
縦長の穴(スリット)が空いているパネル板があり、この穴に向かって硬いボールを発射すると、ついたての先のスクリーンには1つの縦長の線の跡が付く。
またパネル板にもう一つ穴を追加してスリットを2重にしてみると、今度は壁に縦長の2本の線状に跡が付く。
さらに、波動を使って実験すると2つの波動は2重スリットを越えた後、お互いを打ち消し合い縞模様のような干渉縞(かんしょうじま)が現れる。
光子を使った実験
次に光の小さな粒子である光子を使ってこのスリット実験をした。
光子を一本のスリットに発射すると、最初の実験のように一本の縦線が現れた。
しかし、2本のスリットを使って実験をしてみると、今まで通り2本の縦線が現れるのではなく、波動を使った実験と同じ干渉縞(かんしょうじま)が現れたのだ。
学者たちはこの結果に困惑し、スリットの直前の動きを調べるためにパネルのそばに検出装置を設置し、量子を観察することにした。
すると、またしても科学者たちの想定外な結果になった。
今度は干渉縞ではなく、スリットの形どおりに二本の縦線が現れたのだ。
光子はガン見されると態度を変える
光子は自分が科学者たちに観察されていることに気づき、その振る舞いを意図的に変えたようだ。
つまり、科学者にガン見されている時は2つの縦線を描き、シカトされている時は複数の縞模様のような干渉縞を描いた。
この実験は不思議だ。
生物とは言えない「光」にも人のような意識があるのだろうか。
それとも、この世界を作った何者かによって、振る舞いをプログラミングされているのか。
デカルトも現実を疑った
中世フランスの有名な哲学者のデカルトも「この世のすべては夢かもしれない」と疑ったことがある。
「我思う、故に我あり」という言葉で有名な人物だ。
これはデカルトが現実のありとあらゆるものを疑った末に、「考えている自分だけは確かに存在し、自分の存在は疑うことができない」という結論に至った末に出てきた言葉である。
シミュレーション仮説は誰がナゼ?
もしシミュレーション仮説が真実だとしたら、いったい誰がシミュレーションを作り、動かしているのだろうか。
プラトンの洞窟の比喩では、外の住人がモノを安全に運ぶため、足元を照らす火をつけた。
しかし、洞窟内に縛り付けられた人間には影しか認識できず、火をつけた理由も誰が火をつけたのかも理解することが出来ない。
シミュレーション仮説でも同じ事が言える。
世界を作り電源を入れたのは誰なのか?
最初に誰が作り、なぜシミュレーションを実行したのか。
現代にはゲームも含め、様々なシミュレーションが溢れている。
- 銃器を扱うシミュレーション
- 車を扱うシミュレーション
- 暮らしを再現するシミュレーション
今はハードウェアとソフトウェアの制約内で作られるシミュレーターだが、日に日に本物に近づいてきている。
いつの日が、人間と同じ構造で、同じ知識を持つ人工知能が人間の手によって作られるはずである。
その人工知能は果たしてシミュレーションされていることに気づくのだろうか。
哲学的ゾンビ
哲学的ゾンビとは、このシミュレーションの中で本物の人間はあなただけで、周りにいる者はすべて「人間のように振舞うプログラム」であるというものだ。
この世界の住民は意思のある人間のように、あなたと会話するが、「Aと話しかけられたらBと答える」というようにプログラミングされているだけの機械であり、心を持たないゾンビのような存在かもしれない。
本来、あなたの周りの人間に「あなたには心や意識があるの?」と尋ねても、これを確かめる方法はないのだ。
この質問には「ある」と答えるようにプログラミングされていて、「ない」と答えるものはいない。
とはいえ、コンピューターの性能も無限ではないので、あなたに背を向けている人の顔は、メモリ節約のために「のっぺらぼう」のように何も描かれていないかもしれない。
あなたが突然眠くなるのは、バグ修正のメンテナンス作業をするために、シミュレーションをストップさせる必要があるのかもしれない。
人間の脳とコンピュータは同じ仕組みで動いている
人間の脳は網の目のように張り巡らされたニューロンのネットワークで動き、外界を認識する。
目や耳などの五感から入ってきた光や音などの刺激は電流として脳の中を流れている。
ある基準に達すれば1、越えなければ0という仕組みは、まさにコンピュータそのものだ。
つまり、感覚的な刺激はアナログでも脳内のデジタル信号で外界を認識するのだ。
シミュレーション仮説は否定する事ができない
いろんな人物が仮想現実について語っているが、仮想現実と本物の現実を区別する事は不可能である。
というのも、「私達が生きているこの世界が仮想現実ではない」という証拠を見つけたとしても、その証拠すらコンピューターにケーブルでつながれた脳が見ている幻想かもしれない。
筆者はユーチューブで「F1レース」の動画を見ていたのだが、動画が終わるまでその映像がゲーム動画だということに気づかなかった。