不思議な話

【黒い貴族4.5】バブルの仕掛け人ジョン・ローの人生

1716年、黒い貴族はフランス王立銀行(ロワイヤル銀行)を設立した。

一般的には王立銀行はフランス政府がスコットランドの実業家ジョン・ローの建言により設立されたとされるが、それは違うのだ。

ジョン・ローは、黒い貴族のエージェントであり、ミシシッピ会社バブル事件の仕掛け人である。

バブルの仕掛け人ジョン・ロー

John Law by Alexis Simon Belle.jpgジョン・ロー 出典:wikipedia

ジョン・ローはスコットランドの首都エジンバラで銀行業を営なんでいたウィリアム・ローの第5子として生まれた。

1683年に父ウィリアムは滞在先のパリで死去するが、かなりの遺産を遺したとされる。ジョン・ローは14歳になると家族で経営していた銀行を手伝いはじめた。

しかし、1688年に突然家業を放り出してロンドンに上京してしまう。

ロンドンで放蕩生活のすえ殺人犯に

ジョン・ローはロンドンでギャンブルにハマり散財しまくる。だが幸運にも破産することもなく一財産を築くことができたという。世間はそんな彼のことを「イカサマ師」と呼んだ。

1694年4月、ジョン・ローは貴族の娘をめぐるいざこざで男性と決闘し、殺してしまう。その後、投獄され同年5月に絞首刑判決を受ける。

1695年、彼は友人の手引きで裁判所の監獄から脱獄を図るが、すぐに指名手配された。

逃亡後、銀行家として再起を図る

ジョン・ローはオランダのアムステルダムに逃亡すると、そこで再び銀行業を目指すことになる。

彼はパリ、ジェノバ、ヴェネチアなどでヨーロッパ各国の経済システムを学び、経済に関する新しい知識を吸収し見聞を深めていった。

それと同時に彼は行く先々で、その地の支配層に新銀行設立の建白書を提出するが、拒否されていた。

フランスで再出発

フランスへ渡ったジョン・ローは王族とのコネがあったこともあり、宮廷内で比較的早く出世した。

彼は通貨の信用性について言及し、当時の経済政策を批判した。彼の貨幣理論は当時フランスで主流だった古典派経済学の重商主義に異を唱えるものだった。

とくに「フランス全土の金属貨幣を紙幣と入れ替えるべきだ」とする王立銀行券に関する彼の前衛的な主張は夢想家と揶揄され、受け入れられることはなかった。当時のフランスは金貨や銀貨などの硬貨が主流の社会だったからだ。

晩年はヴェネチアで

通説では、ジョン・ローはミシシッピ会社の経営に失敗し、その後はヴェネチアに行き、失意のうちに死亡したとされている。

だが、なぜスコットランドの実業家が故郷ではなく、わざわざヴェネチアに行ったのだろうか。

米経済学者ガルブレイスは、ジョン・ローの晩年について著書『バブルの物語』に次のように書いている。

「ジョン・ローは政治的な保護によりフランス国外に脱出し、イギリスに四年住んだ。イギリスで彼は殺人容疑の赦免を与えられた。その後、ヴェネチアへ行き『清貧、平穏、有徳』な余生を送り、教会の秘跡を敬虔に受け、カトリックの信仰を持って死んだ」

『バブルの物語』/ジョン・ケネス・ガルブレイス

ジョン・ローを救ったのは誰だ?

1694年、ジョン・ローはロンドンで殺人犯として投獄された際、友人の手引きにより運よく脱獄に成功し、難を逃れたとされるが、彼を窮地から救ったのは一体誰なのか?

彼には死刑判決(絞首刑)が下っていたが、そんな状況下で死刑囚に脱獄を手引きできる人物などいるのだろうか。いたとしてもそれが可能な人物はある種の力を持つ、ごく限られた者たちしかいない。

1694年といえば、黒い貴族がイギリス中央銀行(イングランド銀行)を設立し、通貨発行権という巨大権力を手にした年だ。この時、黒い貴族はイギリス政府上層部を支配下に置いたとされる。

ジョン・ローが金融を学ぶために訪問した国

その後、オランダに逃亡し、銀行家として再起を図ろうとしたジョン・ロー。

そんな彼が銀行業や金融システムを学んだ場所は、すべて黒い貴族が支配下においた国々だった。

  • アムステルダム(オランダ)
  • ジェノバ(イタリア)
  • ヴェネチア
  • パリ(バブル戦略のエージェントとして潜入した)

ジョン・ローの家系は黒い貴族だったのか?

ジョン・ローの父ウィリアム・ローは1600年代からスコットランドで銀行業を営んでいた。

スコットランド出身とされるが、ジョンローの家族がかつてヨーロッパ各地に散ったユダヤ民族の末裔である可能性も考えられる。

ひとりごと

ジョン・ローがスコットランドに移動した黒い貴族の末裔だった場合は、また少し事情が変わってくると思うが、そこはとりあえず横に置いておく。

ロンドンで殺人を犯し、投獄されたジョン・ローを死刑執行の前に脱獄させたのは黒い貴族であると仮定する。

ジョン・ローはロンドンに上京してくるとギャンブルに狂い、散財していた。運よく一財産を築いたが、イカサマ詐欺師として、その名は世間に知れ渡っていた。

この段階ですでに彼の噂は黒い貴族の耳にも届いていたのではないだろうか。以前、彼がスコットランドで家族経営の銀行業を手伝っていたことも。

彼らは「国家乗っ取り計画」のエージェントに仕立て上げるためにジョン・ローの命を救ったのではないだろうか。

彼らは命を救う代わりに、黒い貴族の手足となって働くことをジョン・ローに約束させた。

ギャンブル狂いのイカサマ詐欺師は国家乗っ取り計画のエージェントとしてうってつけだったのだろう。

彼らは自分たちの支配下にあるアムステルダムやジェノバ、ヴェネチアにジョン・ローを連れて行き、中途半端だった銀行業と金融システムについての知識を学ばせる。

アムステルダム、ジェノバ、ヴェネチアにある黒い貴族傘下の銀行がエージェントの養成施設となった。

一通り銀行家としての知識を吸収したジョン・ローはフランス乗っ取り計画のエージェントとしてパリに潜入する。

ハッキリとした成果が出るまでしばらく時間が必要だったが、王家のコネを使い宮廷に潜り込むと出世を早め、計画を進めた。

複数の会社を取り込み、貿易と開発を一手に担うミシシッピ会社を設立すると、儲け話をエサに国王との約束を取り付け、フランス王立銀行を設立する。

その後はミシシッピ会社株で国内外の投機熱を煽り、バブルを作り出す。同時進行していたイギリスのバブル計画とも連携を取り、バブルを崩壊に導くと、当初の手はず通りに国外に逃亡した。

以降は雇い主である黒い貴族の指示に従いイギリスに4年ほど住み、ヴェネチアへ凱旋する。

ヴェネチアではキリスト教に入信し、敬虔な教徒として慎ましく寂しい晩年を送ったとされるが、本当のところはどうなのだろうか。

ここからは想像でしかないが、ジョン・ローは黒い貴族の先兵としてフランスのバブル計画を成功させた功績を讃えられ、盛大に迎えられたに違いないと思うのだ。

彼の晩年は、通説としていわれているのとは真逆の賑やかで煌びやかな生活だったのかも知れない。

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