1664年、黒い貴族は「フランス東インド会社」を設立し、フランスを浸食し始めた。彼らはフランス乗っ取り計画の達成のため、1720年にミシシッピ会社をバブル崩壊に導く。
ミシシッピ会社バブルの崩壊でフランスの国家経済は徹底的に破壊された。後にフランス革命が起こるが、その遠因は、この経済破綻に存在する。
同じ年に起きた2か国のバブルの崩壊は偶然ではなく、その背後にはユダヤ金融資本「黒い貴族」が存在する。
- 1720年:イギリスで「南海会社バブル」が崩壊
- 1720年:フランスで「ミシシッピ会社バブル」が崩壊
ミシシッピ計画
フランスにおけるバブル戦略、国家乗っ取り計画を担ったのはスコットランドの実業家「ジョン・ロー」という人物だった。
ジョン・ローは北アメリカの開発と貿易の成功を担保に不換紙幣の発行を提唱した。これが「ミシシッピ計画」である。不換紙幣とは金貨や銀貨との交換が担保されない政府発行の信用紙幣のことだ。
当時のフランスは極度の財政赤字により、ジョン・ローが提案するうまい話に乗ってしまい、彼に多大な権限を与えてしまうのだ。
フランス王立銀行設立
1718年、ジョン・ローはルイ15世の許可を得て、フランス発の中央銀行「フランス王立銀行」を設立し、総裁に就任する。
同年には同行の紙幣での納税を可能にし、紙幣の使用はフランス全土に広がっていった。
ジョン・ローの功績は管理通貨制度を導入し、フランスを金属貨幣経済から紙幣経済にシフトさせたことだとされる。
ミシシッピ会社設立
1717年、ジョン・ローは「西方会社」を設立し、1719年には東インド会社や中国会社などを統合し、フランスの海外貿易を一手に握るインド会社、通称「ミシシッピ会社」を設立した。
彼の狙いは北アメリカのフランス領(ルイジアナのミシシッピ川流域)の開発と貿易にあった。フランス政府は北アメリカと西インド諸島との貿易に関する独占権をジョン・ローに与えた。
ジョン・ローは「私の会社に投資すれば大儲けできる」と宣伝したが、ミシシッピ開発は大して上手く行ってなかった。彼はウソをついていた。
ミシシッピ会社バブル発生
当時フランス国債にはすでに信用がなく、市場価格が額面価格を大きく下回っていた。そこでジョン・ローは国債を額面価格でミシシッピ会社の株式に交換できるようにした。
すると人々はこぞって国債を株式に交換しようとした。ジョン・ローの銀行は大量の紙幣を刷って株式の配当の支払いに充てた。ミシシッピ会社は先王ルイ14世の生み出した多大な財政赤字の解消に貢献した。
ミシシッピ会社株はミシシッピ開発が生み出す価値以上の値をつけるバブルとなり、株価は一株500ルーブルから10,000ルーブルへと20倍にバカ上がりした。
ミシシッピ会社バブル崩壊
1720年5月までに「紙幣に換金可能な株」と「紙幣」を合わせた通貨発行量はルーブル換算で以前の4倍となり、フランス経済は空前の好景気に沸いた。
1720年1月、ジョン・ローは財務総監に任命された。だが5月に取り付け騒ぎが起こると、銀行の支払い能力以上の現金が引き出されたため、ミシシッピ会社株は暴落し、バブルは崩壊した。
ミシシッピ計画が破綻すると、ジョン・ローは財務総監を辞任した。
カモにされた富裕層
1719年5月、パリ在住のイギリス大使ステアはスコットランドの友人や親戚からミシシッピ会社株の購入を依頼する手紙を何通も受け取った。
イギリスの貴族を含む3万人もの外国人がパリに押し寄せ、この株を買った。ステア大使は本国の政府に対し、ジョン・ローに対抗する何らかの処置を講じてイギリスからパリへの資本流入を止めるよう進言した。
1719年12月、貴族を含む何人かの投機家は「南海株」を売り「ミシシッピ株」に乗り換えた。イギリスの貴族や投資家にとって、この2つのバブル企業はどちらを買うべきかという選択の対象だった。
だが、どちらを買おうと2つの会社が黒い貴族の所有物というのは変わりない。彼らは黒い貴族に一杯食わされていた。
同じことはヨーロッパ諸国の人々についても言える。イギリス人がパリで「ミシシッピ株」を買う一方で、その他の国々の人々はロンドンで「南海株」を買っていた。
オランダに住むユダヤ人は損をしなかった
米経済学者キンドルバーガーは「南海会社バブル」と「ミシシッピ会社バブル」は色んな点で関連があったと述べている。
「アムステルダムはパリとロンドンの両方の動きを見ながら、うまく立ち回った。オランダ人はベストなタイミングでミシシッピ会社株を売却し暴落時はほとんど損をしなかったという」
『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー
「アムステルダム」とはアムステルダムにいるユダヤ人のこと。「オランダ」とはオランダに住むユダヤ人のことだ。
イギリスやヨーロッパ諸国の貴族や投資家たちがバブルの崩壊で大損をこいた時、オランダに住むユダヤ人たちは、ほとんど損をしなかった。
なぜなら、オランダに住むユダヤ人はパリとロンドンの両方の動きを見ながら上手く立ち回り、ベストなタイミングでミシシッピ会社株を売却したからだ。
イギリスの損を取り戻すためカモはオランダへ向かった
「4月末までには、証券取引所はまるで常軌を逸した人々が病院から逃げ出してきて、一瞬のうちにそこに集まったかのような状況になった。6月、7月にはイギリスとアムステルダムの間に船による24時間便が運航し、7月16日にはユダヤ人、長老派教会員、再洗礼派員、投機家など、およそ60人が大陸の保険株への投機で損を取り戻すためにオランダとハンブルクへ向けて出発した」
『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー
何も知らないイギリスの投機家集団が損を取り戻すために黒い貴族の拠点であるオランダとハンブルクへ向けて出発した。
「オランダの諸銀行は貸し出しを回収し、追加信用を拒否し、担保として保有していた株を売り払うなど帆を降ろしてたたんでしまった」
『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー
オランダの諸銀行とは黒い貴族が経営する銀行である。つまりは「オランダの黒い貴族は利益を確保して店をたたんだ」ということだ。
「バブル事業は詐欺ともいえるし、詐欺ではないともいえる。ミシシッピ会社の事業は詐欺ではなかったが、南海会社の事業は詐欺であった」
『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー
個人的に、この2つのバブルは両方とも詐欺だったと考えるが、キンドルバーガー氏は「詐欺であるバブル」と「詐欺ではないバブル」と言っている。そもそも「バブル事業」は「事業」と言えるのか。「バブル事業=詐欺事業」と思うが。
南海会社バブルへの見解
南海会社の貿易事業は当初予定していたとおりの主軸の事業にはならなかった。しばらくすると、この会社は貿易事業よりもイギリス政府の国債の整理が主業務となり、その後すぐに国債よりも株式売買が主業務となった。
彼らは株式そのものを担保に借り入れを行いつつ、いくらでも新規に株式を発行することにより、元手なしで儲けようという算段だった。
キンドルバーガーはイギリスの南海会社バブル事件は「詐欺」という見解を示している。
ミシシッピ会社バブルへの見解
ミシシッピ会社は国税の取り立てと銀行業務を行うことを国から認められた。ジョン・ローの行ったことは詐欺というよりも錯誤だったとして、キンドルバーガーは、その誤りを指摘している。
誤りとは次の2点。1つは「株式と債券」を通貨として扱ったこと。もう1つは、需要の増加につれてより多くの通貨を発行してもインフレは起きないという誤った銀行主義。
キンドルバーガーのミシシッピ会社バブル事件についての評価は甘い。
あとがき
「彼は摂政の保護によってフランス国外へ脱出し、イギリスに四年住んだ。イギリスで彼は殺人容疑の赦免を与えられた。彼はその後ヴェネチアへ行き、『清貧、平穏、有徳』な余生を送り、教会の秘跡を受け、カトリックの信仰を持って死んだ」
『バブルの物語』/ジョン・K・ガルブレイス
ミシシッピ計画が破綻すると、ジョン・ローは同年12月にフランス国外へ逃亡を図る。その後、イギリスに4年間住んだ後、ヴェネチアで余生を送り、死去した。
ジョン・ローの足跡は謎に包まれている。逃亡ルートのイギリスとヴェネチアは黒い貴族の活動拠点であり、銀行業と金融システムを学んだアムステルダム、ジェノバ、ヴェネチアもやはり彼らの活動拠点だった。
さらにジョン・ローの命を救うために2度も国外逃亡を手引きした人物がいる。1度目はイギリスで死刑囚となった彼を脱獄させオランダへ逃がした人物。2度目はバブル崩壊でフランスからイギリスとヴェネチアへ逃がした人物。こんなことが可能なのは彼らだけだ。
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