ラスプーチンは帝政ロシア末期に現れた謎の祈祷師である。ニコライ二世のロマノフ家に取り入り、ロシア帝国崩壊の一因になったとされる人物だ。
彼は不思議な力で人々の病を治療したりして「奇跡の人」と呼ばれていたが、本当の奇跡とは一体どのようなものなのだろう。
この記事では、怪しい逸話に彩られた「怪僧ラスプーチンの生涯」について見て行く。
- 怪僧ラスプーチンの生涯について
ラスプーチンは何をした人
- グレゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン
- 1869‐1916
- 死没:1916年12月30日(47歳没)
- 出身:シベリア
- 職業:祈祷師
ラスプーチンは当時、神秘主義に関心の高かった宮廷貴族の女性たちから絶大な支持を集めただけでなく、ニコライ二世とアレクサンドラ皇后の息子アレクセイの血友病を治癒した人物としてロマノフ家の帝政ロシアで影響力を強めていった。
ラスプーチンは、その立場を利用してロシアを再建する政策を実施しようとしていたが、「皇室の名誉を傷つけた男」や「民主主義の敵」として、右派左派どちらの勢力からも嫌悪されていた。
敵対者は、ラスプーチンを「ドイツの代理人」と糾弾していたが、実際のラスプーチンは平和主義者でロシアが戦争に参加することに反対していた。
ロシア宮廷貴族に蔓延するオカルト神秘主義
20世紀を迎えても、ロシアは基本的に中世臭さから脱却できない国であり、封建制度を捨てたばかりのサンクトペテルブルクの宮廷の住人たちは豊かさゆえに孤立し、オカルトに取り憑かれていた。
彼らは、神との仲介役を担ってくれる「奇跡の人」を求めていた。
ロシア皇帝ニコライ2世は「神が狂人の体を借りて、人間に真実を伝えに来る」と確信していた。
ラスプーチンと出会う前から、ニコライ2世がオカルトに心酔していたことが分かる逸話がある。
アメリカの脱出王ハリー・フーディーニ
1905年、「脱出王」で有名なアメリカのマジシャン「ハリー・フーディーニ」がロシア宮廷でマジックショーを開いていた。
フーディーニが「マジックにはすべてトリックがある」と主張したにもかかわらず、ニコライ2世はその言葉が聞こえていないかのようにフーディーニを本物の「奇跡の人」だと信じ込み、「どうか宮廷でその力を発揮してはくれないか」と懇願したという。
のちに、フーディーニは無理矢理、オモチャにされるのを恐れ、宮廷から逃げ出したと語っている。
ラスプーチンの最期
1914年、ロシアは連合国として第一次世界大戦に参戦したが、戦争が長期化したことで、民衆の不満はロマノフ朝へ向けられた。とくにドイツ出身のアレクサンドラ皇后とその側近として国政に介入するラスプーチンがその標的となった。
フェリックス・ユスポフとメンバーたちは、ロマノフ朝の権威を回復させるためにラスプーチンの暗殺を計画した。
- オズワルド・レイナー(イギリス諜報機関MI6の工作員)
- フェリックス・ユスポフ(ロシア帝国の貴族)
- ドミトリー・パヴロビッチ(ロシア大公・皇帝ニコライ2世の従弟)
- ウラジミール・プリシケヴィチ(ロシアの政治家)
1916年12月16日、メンバーは暗殺計画を実行する。フェリックス・ユスポフはモイカ宮殿にラスプーチンを招待し、暗殺するために用意していた毒入りの食べ物と飲み物を盛大に振舞った。
しかし、毒入りの食事を平らげたあとも平然としているラスプーチンを見て、暗殺グループは驚愕する。
数時間後、ラスプーチンが泥酔していることを確認すると、ユスポフはラスプーチンの胸部めがけて弾丸を数発撃ちこんだが、ラスプーチンは絶命するどころか起きあがり向かってきた。
今度は他のメンバーが再び銃弾を撃ち込み、靴で顔面を殴りつけ、とどめの一発を眉間に打ち込むとラスプーチンは倒れて動かなくなった。
メンバーはラスプーチンの死体を部屋のカーペットで包み、車で近くを流れるネヴァ川まで運び、凍てつく水の中に捨てたという。
死因
ラスプーチンの検死を担当したディミトリ・コソロトフ医師はユスポフの話どおり重点的に青酸カリを調べたが体内からは検出されず、死因は額に打ち込まれた一発の銃撃だと断定した。
この検死については「1993年」と「2005年」に大学の法医学教授らが再調査したが、当初の所見に誤りは見つからなかった。
イギリスにある帝国戦争博物館も当時撮られた頭部の写真を調査したが、射入口はイギリスの軍用拳銃「445口径ウェブリー」のものと一致すると認めた。
ラスプーチンの逸話
帝政ロシア末期の宮廷を操っていたされる怪僧ラスプーチンには、その名に恥じぬ怪しげなエピソードがいくつも存在する。
- 聖母マリアの啓示を受けた
- 奇跡の人と呼ばれた
- 不思議な能力でアレクセイ皇太子の血友病を治療する
- 「巨根」で宮廷貴族の女性たちから支持された?
- 金に執着しない無欲な男
- 胃酸過多に苦しんでいた
- 義人から聖人へ
- ラスプーチンはドイツ政府のスパイだった
- イギリス諜報部「MI6」関与説
①聖母マリアの啓示を受けた
ラスプーチンは「聖母マリアの啓示を受けた」という説がある。
彼は1887年に結婚した。1892年のある日のこと、畑仕事をしていると突然父と妻に「巡礼に出る」と言い残し、村を出て行った。
その後の数か月を修道院で過ごすうちに酒を断ち、肉食をやめ、ふたたび村に戻ってきた時には修行僧になっていた。
②奇跡の人と呼ばれた
ロシア第二の都市サンクトペテルブルクにやってきたラスプーチンは、人々の病を治療するうちに、「神の人」や「奇跡の人」と呼ばれるようになっていた。
当時のロシア宮廷はオカルト(神秘主義)が浸透しており、奇術師フーディーニが逃げ出したあとに現れた「奇跡の人」ラスプーチンに熱狂した。
③不思議な能力でアレクセイ皇太子の血友病を治療する
ラスプーチンと聞いて、まず思い浮かぶのは「皇帝ニコライ2世の息子アレクセイ皇太子」の「血友病」を治療し、症状を緩和させたという能力だ。
治療がうまくいったのは、「催眠術」や「魔術治療」、「薬物治療」、「磁気治療」などを施したからだとする説がある。
しかし、なによりも可能性の高い説は「祈祷」と称してアレクセイ皇太子と部屋に閉じこもり、「皇太子から宮廷のヤブ医者たちを引き離したことが一番の治療法だったのでは」とも考えられるのだ。
当時の宮廷医師たちは、出血したら血液が固まらない血友病の皇太子の治療に使ってはならない「抗凝血剤」を投与する可能性もあったかもしれない。
④「巨根」で宮廷貴族の女性たちから支持された?
ラスプーチンはアレクサンドラ皇后をはじめ宮廷貴族の女性たちから絶大な支持を集めたが、その理由が彼の「巨根」と超人的な「精力」によるものだという説がある。
実際にラスプーチン殺害後に暗殺者たちに切り取られたとされる約33センチの巨大な「ラスプーチンの男根」の標本がサンクトペテルブルクの博物館に保存されている。
また、私生活を調べた秘密警察の報告書には「淫乱な生活」と記載されるほどであり、ラスプーチンには「皇帝一家や貴族のために祈りを捧げた直後に売春宿に出かけるという2面性を持っていた」という逸話がある。自慢の巨根でブイブイ言わせていたのだろうか。
「ラスプーチンは漁色家」は政敵による創作
漁色とは「だれかれかまわず、次々と女を漁りまくること」を意味する言葉だ。
ラスプーチンが漁色家だとする説はニコライ大公(ニコライ1世の孫)の作り話の可能性が指摘されており、この漁色に関する逸話の半分近くが政敵による創作だとされている。
こうした指摘があるにもかかわらず、「ラスプーチンは漁色家」というイメージ戦略が功を奏したのか、ロシア各地には「ラスプーチン」という名の「ストリップ小屋」が存在する。
⑤金に執着しない無欲な男
ラスプーチンという人物は、性欲には貪欲でも金銭に関しては無欲だったのだろうか。
彼は金銭を受け取っても、すぐに他人に渡してしまうことが多かったという。
街頭での托鉢や劇場、レストラン、カフェなどで気前よく大金を支払うので、「金銭に執着しない無欲の男」で通っていた。
⑥胃酸過多で苦しんでいた
娘のマリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂以降、胃酸過多に苦しんでおり、砂糖や甘口のデザートワインを飲んで症状を和らげていたという。
ラスプーチンの暗殺未遂事件は1914年6月29日に起きた。故郷シベリアのポクロフスコエ村に家族とともに帰っていたラスプーチンは、自宅で「キオニヤ・グセバ」という女性に襲われ、腹部を刺されたが、一命をとりとめた。
グセバは、ラスプーチンの政敵「セルゲイ・トレファノフ」の信者だった。事件後、彼女は精神病院に収容されたという。
⑦義人から聖人へ
キリスト教(またはユダヤ教)には「義人」という概念がある。これは「利害を考えず、正義をおこなう人」を指す。
現代のロシアではラスプーチンはロシア正教会の一部の者や一般市民から「義人」の扱いを受けている。
だが、ロシア正教会の総主教アレクシイ2世は「ラスプーチンはイヴァン4世やスターリンと同じ狂人である」と反論し、狂人ラスプーチンを「聖人」に格上げする動きに反対していた。
⑧ラスプーチンはドイツ政府のスパイだった?
「ラスプーチンはドイツ政府のスパイだった」という説がある。
1915年、ラスプーチンはドイツ政府にある提案を持ちかけたという。その提案とは「平和の仲介者のフリをして皇帝に近づき信頼を勝ち取り、ロシアを第一次世界大戦から撤退するように仕向ける」というものだった。
ドイツ政府から承諾を得ると、ラスプーチンは皇帝へ「紛争から手を引いて、ヨーロッパから離れるように」と何度も何度もしつこく進言した。
その結果、35万人のドイツ兵を東部戦線から撤退させ、西部戦線へ送り込むことができた。これだけの兵士を投入すれば、ドイツは西部戦線で有利になる。
ロシアの撤退は、同じ連合国のイギリスにとっても大打撃であり、この時イギリス諜報部では「怪僧ラスプーチンを抹殺せよ!」という怒号が飛んだに違いない。
また、ラスプーチンと「特別な仲」を疑われていたアレクサンドラ皇后がドイツ出身ということもこの説を後押しする理由の一つになっている。
⑨イギリス諜報部「MI6」関与説
1916年10月、イギリス諜報機関「MI6(エム・アイ・シックス)」の工作員、オズワルド・レイナーは、ある計画を実行するためにフェリックス・ユスポフ公との「ヨリ」を戻すよう命じられた。ユスポフには女装癖があり、ユスポフとレイナーはともにオックスフォード大学で学んでいた頃の恋人だった。
事件当日、暗殺の真の首謀者オズワルド・レイナーは、早めにモイカ宮殿に到着していた。やがてラスプーチンが到着すると、工作員がとなりの部屋に潜んでいるいることを悟らせないよう蓄音機のボリュームを上げ、計画実行の時を待った。ラスプーチンはペテン師かもしれないが、妙に感の働く人物だったからだ。
ユスポフがラスプーチンを仕留めそこねたとき、部屋に乗り込んで眉間を撃ち、息の根を止めたのはレイナーだった。
ラスプーチンの映画
1932年、アメリカで映画『怪僧ラスプーチン』が製作された。
ユスポフ夫妻は、この映画の演出(事実に基づいていないこと)に対し、映画会社のMGMを訴えて勝訴している。
それ以降「登場する人物はすべて架空であり…」という映画でお馴染みのフレーズが注意事項として加えられることになった。
ラスプーチンの娘マリア
ラスプーチンの娘マリア・ラスプーチナは、父の死後にヨーロッパを転々としたあと、アメリカに渡った。
サーカス団で「ロシア怪僧の娘」として売り出され、ライオンの調教師として働いていたが、1935年に運悪くクマに襲われ重傷を負い、退団を余儀なくされた。
その後、アメリカ海軍造船所の溶接工や病院、ロシア語教師、ベビーシッターなどの仕事をしながら1977年にロスアンゼルスで生涯を閉じた。
ラスプーチンの孫娘マリア
紛らわしい話だが、マリアの娘もマリアなのである。
1947年、ラスプーチンの孫娘であり、マリア・ラスプーチナの娘であるマリア・ソロヴィエヴナはオランダの外交官と結婚し、オランダ大使夫人となった。
ラスプーチンの奇跡
ユスポフの娘イリナは結婚後にギリシャへやってくると、ギリシャのオランダ大使夫人のマリアと知り合い、親友になる。当然、お互いに面識はなかった。たまたまだ。
彼女たちは別れの日、互いの秘密を告白する。
マリアが「実は自分はラスプーチンの孫娘だ」と告げると、イリナは「そのラスプーチンを討ったユスポフは私の父だ」と答えた。
これまでラスプーチンは数々の奇跡を起こしてきたが、この最後のマジックにトリックは存在しない。
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