不思議な話

【日航機墜落事故とプラザ合意】売国政策の検討が加速する

1980年代、日本では株価が急上昇し、バブル経済が発生した。だが、そこに至る道のりで起きたことは何なのか。

経済学者キンドルバーガーは戦後の日本経済について次のように述べている。

「日本経済はバブルに向かって育成された」と。

プラザ合意を前後しての日本の動き

日航機墜落

プラザ合意

東京サミット

グローバリストは日本をバブル経済に突入させる計画を実行した。日航機墜落からプラザ合意、東京サミットを経て、本格的にバブル経済が膨らんでいく。

戦後日本の株式市場のはじまり

戦後、株価は「176円」からスタートし、日本経済は拡大していった。

「1949年5月に176円21銭でスタートした日経225種平均株価は、1970年代初めには早くも5000円に達し、1984年には1万円台にのった。1986年頃からバブルが始まり、1989年には3万9000円近くになった。年間の出来高は株価ほどではないものの、1983年の120億株から89年には2800億株に増加している」

出典:『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー

戦後日本の不動産市場の動き

戦後日本の不動産市場の動きについて、キンドルバーガーは次のように述べている。

「この間、不動産市場は大きく出遅れていたわけではない。1955年を100とした6大都市圏の住宅価格指標は、70年代半ばには4100、80年代前後には5800に達し、89年にはピークの2万600にまで上昇した。土地バブルを評して、東京の地価総額がカリフォルニア州を上回るとか(カリフォルニア州の面積は日本を上回るのだが)、日本の地価の総額はアメリカの4倍などと言われた」

出典:『熱狂、恐慌、崩壊』/C・P・キンドルバーガー

1980年代、日本のマスコミはすべてを「カネ」に換算した。バブル時代の日本では「アメリカがいくつも買える」といわれていた。

バブル期には株価や地価は上昇したが、消費者物価や卸売物価は上昇せず、「消費者物価・卸売物価」とバブルは無関係だった。国民にとっての日用品(生活必需品)の価格も上昇していない。

1980年代、バブルの時代には株や不動産、絵画などの投機関連商品だけが値上がりした。これは仕掛けられたものである。

日米関係と日本の奴隷化

1980年代の日米関係は、中曽根康弘(内閣総理大臣)ロナルド・レーガン(米大統領)の時代であった。

2人はお互いをロンヤスと親しく呼び合い、世間では「ロン・ヤス関係」といわれた。また、日米関係は「対等」で、そこには「平和な日米関係」が構築されていると思われた。

だが、日米関係の実態は消してそのような甘美なものではない。中曽根とレーガンの時代に「日本の米国奴隷化」が進んだからだ。

中曽根康弘という人物

中曽根康弘は敗戦後、間もない頃からグローバリストの手先として育成された人物である。その師はヘンリー・キッシンジャーだった。

日本の原発導入に尽力したのはCIAのスパイだった正力松太郎だけではない。中曽根も原発を推進した人物である。日本への原発導入は1955年。

つまり、彼らは1950年代から日本を破壊する計画をグローバリストの手先として実行していたということになる。

ロナルド・レーガンという人物

1981年3月30日、レーガンが大統領に就任して69日後、グローバリストは従順に見えなかったレーガンを狙撃した。それは「従わないなら殺す」という脅しだった。その後のレーガンは完全な配下となった。

弾丸は肺の奥深くまで達しており、死んでも不思議はなかった。支配層はレーガンを殺すつもりだったのだろう。副大統領には傀儡として働くジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ)を据えていたからだ。

パパ・ブッシュはのちに大統領になり、湾岸戦争を実行する。さらに、息子のブッシュJr.アフガニスタン戦争イラク戦争を実行した。ブッシュ親子は大統領時に戦争を実行した「戦争親子」である。

傀儡と対米従属

早くからグローバルエリートに育成された中曽根氏は、傀儡(かいらい)の意味をレーガンよりも熟知していたため撃たれるようなヘマをしなかった。「日本列島を不沈空母にする」と発言すると、マスコミはこぞって彼を叩いた。

だが、その批判も的外れだった。日本は絶対に「不沈空母」にはならないからだ。グローバリストからすれば日本列島はただの「米軍基地」にすぎず、いつでも破壊することのできる極東の島国なのだ。

あれから40年以上たったが、日本列島は相変わらず「米軍基地」のままであり、その多くを押し付けられてきた沖縄県民の怒りは計り知れない。

日航機墜落事故とプラザ合意

ニクソン・ショック(1971年)やブラックマンデー(1987年)により、アメリカ経済は傾きはじめていた。

だが、グローバリストにはその窮地を脱するための策があった。それは日本にバブルを仕掛け、利益を奪い取る計画である。当時の日本では重要な2つの出来事が起きていた。

1980年代当時の重大な出来事
  • 1985年8月:日航機墜落(日本航空123便が御巣鷹山に墜落)
  • 1985年9月:プラザ合意(日本政府は円高ドル安政策を受け入れる)

この「プラザ合意」を契機に日本ではバブル経済が始まったが、そのひと月前に米国は日本政府を脅していた。それが日航機墜落事故である。そのご褒美として竹下登は内閣総理大臣になっている。

日航機墜落事故

1985年8月12日、「羽田発→大阪行き」の日本航空機123便が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に墜落炎上する大惨事が起きた。この便には524人が搭乗していたが、そのうち520人が死亡した。

この事故については様々な調査がおこなわれたが、これまで納得のいく説明がなされていないと考える人も多い。

「日航機墜落事故は事故ではなく、米軍機(もしくは自衛隊)による撃墜だった」とする説がある。おれんじえあ、この日航機撃墜が意味するのは「日本政府は翌月に開かれるG5でアメリカ経済を支援せよ」というメッセージだというのだ。

プラザ合意

1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)が開かれた。会議の進行役は米国のベーカー財務長官。日本側の出席者は竹下登・大蔵大臣と澄田智・日銀総裁だった。

このG5で決められたプラザ合意(円高ドル安政策)が日本のバブル経済を作り出すきっかけとなった。一般的には、米国がこの会議で「円高ドル安」をゴリ押ししたとされているが、それは真実ではない。

正確には、「日本側の竹下登が円高ドル安政策を申し出た」のだ。当日、会議に出席していた米国中央銀行FRB議長のポール・ボルガーは次のように述べている。

「会合で私が最も驚いたのは、その後、総理大臣となった日本の竹下登大蔵大臣が円の10%以上の上昇を許容すると自発的に申し出たことである」

出典:『富の興亡』/ポール・ボルガー、行天豊雄

竹下登と自虐的な日本

FRB議長のポール・ボルガーはロスチャイルド家の代理人であり、この時すべての事情を知っていたはずだ。

だから、彼がこの時「驚いた」というのは疑わしい。ボルガーが驚いたのは、日本が異常に自虐的だったからだ。

この件に日航機墜落事故が関係ないとするなら、竹下氏のこの卑屈な行動はいったい何を意味するのか。また、そのことに驚いたのは米国だけではないとボルガーは語っている。

「竹下・大蔵大臣の態度が、他の参加者をも驚かせたことは確かであり・・・(後略)」

「ヨーロッパ諸国の主要な関心は、過大評価されているドルに対する自国通貨の為替相場ではなくて、円に対する為替相場であった。円の切り上げ幅が大きければ大きいほど、ヨーロッパ諸国は自国の競争力について安心できるのであった」

出典:『富の興亡』/ポール・ボルガー、行天豊雄

売国で手に入れたもの

「円高ドル安政策」は、米国だけでなく英・仏・独などの欧州各国も助ける。これで困るのは日本だけだ。だから各国首脳は竹下の申し出に驚いた。

当然だが、会議に集まった米国も欧州各国も自国の利益を追求する自国ファーストだ。その中で日本ファーストだけが機能していなかった。時の大蔵大臣は外国勢力に尻尾を振って売国に勤しんでいたからだ。

のちに、その褒美として彼には内閣総理大臣の椅子が与えられるのだ。

プラザ合意でバブル経済始動

1985年9月、日本は「プラザ合意」を受け入れた。これがバブル経済の開始を告げる合図となる。

1986年5月の「東京サミット」では「日本の貿易黒字について」話し合われた。この時、グローバリストの配下であった中曽根首相は「日本の貿易黒字を削減せよ」という各国首脳の要求を受け入れた。

貿易黒字を削減する方法は「輸出を減らす」か、「輸入を増やす」のどちらかだ。資源を持たない貿易立国の日本は輸出を減らすことは出来ない。だから内需拡大により輸入を増やすしか選択肢はなかったのだ。

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