カトリックの総本山「バチカン」。
ここはイタリア、ローマの一画に建てられた独立国家であり、キリスト教会派の1つ、カトリック教徒の聖域である。
世界権力の中枢を担うとされるこの組織は、オカルティックなものから金銭的スキャンダルまで数々の陰謀説が囁かれている。
バチカンはカトリックの総本山
ローマ帝国にはもともとグノーシス主義や新プラトン主義など有力な思想があったが、キリスト教はそれら全部を追い出した。
そして、キリスト教は巨大な宗教システムを作り出し、古代ローマ帝国を乗っ取った。
キリスト教会を超権力にした成立要件は2つある。
- 323年:キリスト教は古代ローマ帝国によって公認された
- 325年:最初の宗教会議「ニケイア公会議」が開かれた
教義の一本化
「ニケイア公会議」以降、教義の確立を目的とした宗教会議がたびたび開かれることになる。
それまでのキリスト教の内部では複数の教義が存在した。つまり、「キリスト教とは何か」ということについて、イエスの死後の世界では各地の各集団で解釈にバラツキがあった。
教義が統一されていないのは困るということでキリスト教会の上層部は教義の一本化を図り、その結果、イエス・キリストという存在は「三位一体」ということに決められた。
三位一体 = (神=イエス=聖霊)
異端審問という絶対権力
ここでは三位一体説が事実であるか否かは関係ない。重要なのは様々な規律が決められていき、それに違反する者は異端者(悪魔)として扱われるようになったことだ。
異端者に認定されるということは、悪魔として殺されるということ。これが中世における「魔女裁判」の理論的な土台となった。
この世で誰が悪魔で誰が魔女なのかを最終的に判断するのはカトリック総本山のバチカンだった。
これによりバチカンは絶対的権力を握ることになる。ヨーロッパ世界で生きていた当時の人々は、キリスト教会の言う事に従うしかなかった。
神父から異端だと見なされれば、殺されてしまうからだ。これでは恐怖で自分の考えなど持つことは出来ない。人々は教会の言いなりになるしかなかった。
キリスト教は宗教団体だったが、当時のバチカンは殺人を命令することができる超権力組織でもあった。
脅かされたバチカンの権力
組織が作られた当初から、殺人や欲望、陰謀にまみれ長らく権力中枢に君臨していたバチカンであった。
だが、その超権力は1871年のイタリア統一によって初めて脅かされることになった。
この時、新政府はイタリア国内の整理整頓もしくは断捨離を決行し、教皇が所有していた土地のほとんどを没収した。
孤立するバチカン
イタリアとバチカンが膠着状態になってから60年間、バチカンから外へ出てくる教皇はいなかった。また、イタリアの役人がバチカンを訪問することも許されなかった。
バチカンは、この孤立している期間に元々弱かったマフィアとのつながりを強化していった。
マフィアと聞けば、大胆で無謀な荒くれ者の集団を連想するが、当時のマフィアは現在のような組織ではない。
マフィアの起源
マフィアの起源は9世紀までさかのぼる。もとはシチリアに襲来したサセラン人と戦うために結成した戦闘グループだった。
しかし、19世紀には金のためではあったが、イタリア全土に散らばる小さな一族のネットワークに変化し、非道な領主や腐敗した役人から地元民を守るために尽力した。
現代初期のマフィアはイタリアを監視するバチカンの目となり耳となった。
ラテラノ条約
バチカンとイタリアの膠着状態は1929年に終わりを迎える。ローマ教皇庁がイタリア首相ムッソリーニと「ラテラノ条約」を結んだからだ。
ムッソリーニはバチカンをイタリア内にある別の国として承認し、過去に没収した教皇の領地を補償すると約束した。こうしてバチカンはヨーロッパに台頭してきた闇の勢力と手を結ぶようになった。
当時、マフィアはすでに犯罪組織になっていたが、両者のつながりは強すぎて関係を断ち切ることはできず、多少の犯罪は見て見ぬふりでマフィアとともに落ちぶれることに甘んじていた。
バチカンと乳児誘拐
第2次世界大戦が起きようとする中、バチカンはナチスを支持していたスペインのフランコ総統に取り入った。
この時、フランコはカトリックの司祭や修道女がスペイン国内の赤ん坊30万人以上を誘拐しても目をつぶった。
彼らは母親に死産だったと嘘をついて国際的な乳児市場で販売し、バチカンの金庫を満たした。
この売買成功の裏にはすでに確立されていたマフィアとのコネクションがあった。
バチカンとナチス
第2次世界大戦が勃発すると、第260代教皇ピウス12世はバチカンで反ユダヤ主義の態度をとり、すぐさま「ヒトラー教皇」とののしられた。
終戦後、アロイス・フーダル司教が指揮を執り、ナチスの党員をバチカン経由で逃亡させる逃走経路「ラットライン」を敷いた。
逃亡したナチス党員の中にはエドゥアルト・ロシュマン(リガの屠殺人)や戦犯ヨーゼフ・メンゲレ、アドルフ・アイヒマンもいた。
バチカンはナチスが貯め込んだ戦利品をむさぼり、マフィアの資金を洗浄していた。この事態を問題視したヨハネ・パウロ1世は、その生涯をかけてバチカンの抱える闇を暴こうとした。
教皇ヨハネ・パウロ1世
第263代教皇ヨハネ・パウロ1世は「微笑み教皇」とも呼ばれ、バチカン内を改革し、闇を暴こうとした人物だった。
- 避妊の解放
- バチカン銀行の改革
彼は「本当に出産したい女性のみが妊娠すべきである」と避妊擁護の考えを持っていた。
また、マフィアとの深いつながりやバチカン銀行内部の汚職に関係している者たちをリストアップし更迭しようとしていた。
これにより、ヨハネ・パウロ1世はバチカン内の改革派と信者からは大きな支持を得たが、その一方で追放の対象者となった保守派やその利害関係者からは大きな非難を受けていた。
ヨハネ・パウロ1世暗殺説
1978年9月28日の夜、ヨハネ・パウロ1世はベッドに横になりバチカンとマフィアの関係を記した文書に目を通していた。
その中には、ポール・マルチンクス大司教とロヴェルト・カルヴィの取引に関する資料もあった。
バチカン銀行総裁マルチンクスは、カルヴィが頭取務めるアンブロシアーノ銀行からバチカン銀行を通じてマフィア絡みのマネーロンダリングや不正融資をおこなっていた。
翌朝、ヨハネ・パウロは死体で発見され、書類はすべて無くなっていた。彼が教皇の座に就いていたのはわずか33日間だった。
教皇ヨハネ・パウロ1世の死には不審な点がいくつもあり暗殺説が囁かれている。
教皇暗殺の謎
午前4時、ヨハネ・パウロ1世が起床時間に起きてこないことを不審に思った修道女が教皇の個人秘書のマギー神父に連絡する。
午前5時、ヴィヨ国務長官に連絡が行くが、彼は専属医師を呼ばずに自分の側近に連絡し、レナート・ブゾネッティ医師を派遣する。
午前6時、ブゾネッティ医師は現場に到着し、検死をおこなったが、遺体解剖は実施されなかった。
午前7時すぎ、バチカンの国営放送にてヨハネ・パウロ1世の検死結果が発表された。
- 遺体発見時間:5時30分(正しくは午前4時)
- 遺体発見者:マギー神父
- 死亡推定時刻:1978年9月28日午後11時
- 死因:急性心筋梗塞
女人禁制の聖職者の私室に修道女が入ったことなどを理由に遺体発見者は個人秘書のマギー神父であると発表され、遺体の発見時間も午前4時ではなく、午前5時30分と偽って発表された。
ヨハネ・パウロ1世の私物が行方不明
遺体発見時にベッド周辺に置かれていた以下の私物がヴィヨ国務長官により持ち去られた。
ヴィヨ氏は前日にヨハネ・パウロ1世により更迭が言い渡されたばかりだった。
- 眼鏡
- スリッパ
- バチカンの人事異動リスト(更迭・追放者リスト)
- 遺言状(通常は常時用意されている)
葬儀屋への連絡と証拠隠滅
ヨハネ・パウロ1世の遺体発見後、医師への連絡よりも早い、午前5時前にバチカン御用達の葬儀社、シニョラッティ社に葬儀依頼の連絡が入った。
通常なら遺体整復の前に内臓を取り出すのだが、ヨハネ・パウロ1世については、その順序で実施されていない。
死因がハッキリせぬまま遺体整復師による防腐処理がおこなわれ、後日、遺体解剖は防腐処理後に秘密裡に行われたと発表された。
だが、バチカンによるこの不可解な行動は証拠隠滅のためではないのかと、イタリア政界やマスコミだけでなく、バチカン内部からも大きな疑惑を呼んだ。
マルチンクス大司教の不可解な行動
普段は早朝に起床することがないマルチンクス大司教がなぜか事件当日の午前6時45分にヨハネ・パウロ1世の私室近辺いたというが、いったい彼はそこで何をしていたのか。
死因は毒物か?
ヨハネ・パウロ1世はジギタリスという毒物が混入されたコーヒーを飲んで死亡したとする説がある。
実は部屋から最初に持ち出されたのはコーヒーカップだというのだ。
ロッジP2説
1982年、ロンドンのブラックフライアーズ橋にアンブロシアーノ銀行の頭取ロヴェルト・カルヴィの死体が吊るされた。
これを機にバチカン内の汚い取引が次々と暴露されていき、それと同時にフリーメイソンのイタリア支部であった「ロッジP2」の権力が明るみに出た。
これにより、ヨハネ・パウロ1世の死には「バチカン銀行の改革」と「汚職による追放」を恐れたヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、ロッジP2のジェッリ代表、アンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説も囁かれた。
マフィア説
教皇就任後、その責任を果たすべくヨハネ・パウロ1世はバチカン銀行とマフィアのつながりやバチカン内の腐敗を暴こうとしていた。
マフィアはバチカンに対して、あらゆる面で多大な影響力を持っているとされるが、ヨハネ・パウロ1世の動向に危機感をおぼえたマフィアの手先が教皇を殺害したという説もある。
バチカンの陰謀
バチカンの陰謀はヨハネ・パウロ1世の死で終わらない。先代の姿勢を引き継いだ「ヨハネ・パウロ2世」も2度の暗殺未遂に見舞われた。
1998年にはバチカンのスイス人衛兵セドリク・トーナイが上司で衛兵司令官アロイス・エステルマンとその妻を射殺し、トーナイも自殺した。
バチカンは狂人が起こした事件として片づけたが、エステルマンは東ドイツの秘密警察シュタージとつながっていたという噂もある。
興味深い点は1981年、エステルマンがヨハネ・パウロ2世を銃弾の雨から救ったことだ。
とすれば、エステルマンを殺害したのは次の2派のどちらかの可能性が考えられる。1つはバチカン、もう一つは厄介な関係が明るみに出ないように目論んだ教皇暗殺未遂事件の関係者だ。
2002年4月、トーナイの母親は事件の捜査が不十分だとして再捜査を要請したが、バチカンは再捜査するほどの新事実はないとして、この要請を拒否した。
あとがき
ヨハネ・パウロ1世が死去したことにより改革がおこなわれなかったバチカン銀行は、その後もマネーロンダリングなどの違法な取引に関わり続けた。
かつて、イエス・キリストはこう述べていた。
図書館や銀行、金庫に眠る秘宝まで、バチカンには莫大な財産があるが、彼らはこのイエスの教訓を忘れてしまったのだろうか。
生前、ヨハネ・パウロ1世は清貧の精神を失うことなく次のように語っていた。
5リラは現在の日本円に換算すると27円。バチカンでイエスの教えをよく理解していたのはヨハネ・パウロ1世だけだったのだろう。