日本という国に生まれた者ならば愛国心を持つことは当然だ、と考える人がいる。
だが過去や未来においては必ずしもそうとは限らない。日本人が愛国心を持つようになったのは明治以降のことである。
それまで日本の国民という意識もなく、愛国の「あ」の字も知らなかった人々が愛国心を持つようになったのはなぜなのか。
大津事件
1891年(明治24年)5月20日、畠山勇子という女性が京都府庁舎の前で自決した。享年25歳。彼女は地面に座り、持ってきカミソリで腹と喉を切り裂いた。自決の動機は「大津事件」だった。
大津事件とは明治の日本で起きたロシア皇太子暗殺未遂事件のことである。
1891年5月11日、来日中だった帝政ロシア皇太子のニコライ・アレクサンドロビッチ(後のニコライ二世)が滋賀県大津を移動中に警護にあたっていた巡査からサーベルで斬りつけられる事件が発生した。
烈女・畠山勇子
東京で女中として働いていた畠山勇子は、この事件のことを知ると「日本の危機」だと気が動転した。そして、皇太子が予定を切り上げて帰国するのを何としても阻止しなければと考えた。
というのも、事件後にせっかく天皇が京都に出向いて皇太子を見舞ったのに、そのまま帰国してしまえば天皇も日本国民も面目丸つぶれだと勇子は思ったからだ。
そこで勇子は「自分の命と引き換えに嘆願すれば皇太子も考え直してくれるはず」と考え、事におよんだのだった。
変人扱いから称賛へ
自決当時のマスコミは「変人の奇行」と冷たい扱いだったが、1942年に出版された『武士道散華』などの書籍では「切腹武士道」の日本精神を実践した女性として称賛されている。
1942年に彼女の自決が「日本精神の精華」と理解されたのは、当時武士道が日本人にとっての社会的な規範となっていたからだ。
1890年以降、「すべての日本人が武士道を手本にすべきだ」という機運が高まり、武士道ブームが社会現象となるが、勇子の自決はその先駆け的な出来事であった。
明治の日本人と愛国心
畠山勇子の自決に対する評価は、時の流れと共に「変人の奇行」から国を思う武士道精神の体現者へと変化していった。同じ事件でも時代が変われば受け取られ方は変わる。
明治に発行されていた雑誌では、1890年までは多くの言論人たちが次の問題について論じている。
- なぜ日本人には愛国心がないのか
- どうすれば日本人は愛国心を持つようになるのか
また、明治の思想家・西村茂樹は1891年に開かれた自身の講演会で「だいたい愛国心って何のことだ?」というのが人口の7、8割をしめる一般庶民の受け止め方だと述べている。
つまり、明治前半の多くの日本人にとっては、愛国心を持つことは自然なことでも当然のことでもなかったということだ。
たった7年で愛国者に豹変した日本人
ところが、そのたった7年後の1898年(明治31年)には、フランスの宣教師リギョールが自著『日本主義と世界主義』で次のように述べている。
「世界にはたくさんの国々があるが、日本人ほど愛国、愛国と絶叫する国民はこれまで見たことがない」
それまで「愛国心がない」と言われてきた多くの日本人が、たった7年のあいだに外国人も驚くほどの熱狂的な愛国者に豹変したという。
この7年間で明治政府が人々を愛国者にするために行ったこととは何なのか。
参考:『愛国の起源』・『愛国の教科書』/将基面貴巳