ニューサンノー米軍センター、通称・ニュー山王ホテル。ここはホテルという名の米軍基地。日米合同委員会が開かれる場所である。
東京都心の高級住宅が並ぶ一等地、港区南麻布4丁目12‐20。明治通りの天現寺橋交差点の近くに、その施設はある。
本記事では謎に満ちた日米合同委員会の組織図とメンバー構成、会議が開かれているニュー山王ホテルについて記す。
- 日米合同委員会の組織図とメンバー構成について
- ニュー山王ホテルについて
日米合同委員会の組織図
1952年(昭和27年)4月28日に対日講和条約、日米安保条約、日米行政協定(現・地位協定)の発効にともない日米合同委員会も発足された。
上記の図は外務省ホームページに掲載されている日米合同委員会の組織図である。
日米合同委員会の下にはこれだけの下部組織が構成されている。下部組織である各分科委員会の名称と、その主な協議内容は次のようになっている。
気象分科委員会
気象庁による米軍への気象情報の提供
基本労務契約・船員契約紛争処理小委員会
米軍基地の日本人従業員の雇用契約上の紛争などの処理
刑事裁判管轄権分科委員会
米軍関係者の犯罪の捜査や裁判権などの問題
契約調停委員会
米軍による日本での資材や備品などの調達の契約をめぐる紛争の調停
財務分科委員会
在日米軍の財産や米軍関係者の所得などに対する課税の問題
施設分科委員会
基地・演習場の提供、使用条件、返還、調整、管理や移設
周波数分科委員会
米軍による無線通信の電波周波数の使用・調整・管理
調達調整分科委員会
米軍による日本での資材や備品などの調達に関する問題
通信分科委員会
電気通信や電波使用における周波数以外の問題
民間航空分科委員会
米軍機に関わる航空交通管制
民事裁判管轄権分科委員会
米軍関係の事故・事件の損害賠償や補償など民事裁判権に関する問題
労務分科委員会
米軍基地の日本人従業員の労働条件や待遇など労働問題
航空機騒音対策分科委員会
米軍基地周辺での米軍機の騒音問題
事故分科委員会
米軍機墜落事故の原因調査など米軍関係の事故
電波障害問題に関する特別分科委員会
米軍基地周辺などで米軍が影響を受ける電波障害に関する問題
車両通行分科委員会
米軍車両の日本国内での移動
環境分科委員会
米軍基地・演習場の環境汚染など環境問題
環境問題に係る協力に関する特別分科委員会
米軍基地・演習場の環境汚染などの問題で、連絡態勢や立ち入り調査などに関する日米間の協力
日米合同委員会合意の見直しに関する特別分科委員会
日米合同委員会で合意された事項の見直し
刑事裁判手続きに関する特別専門家委員会
米軍関係者の犯罪の刑事裁判の手続きに関する問題
訓練移転分科委員会
米軍の訓練場所を沖縄の基地・演習場から県外の基地・演習場に移転すること
事件・事故通報手続きに関する特別作業部会
米軍関係の事件・事故が起きたときの通報手続きに整備
事故現場における協力に関する特別分科委員会
米軍機墜落事故などの現場での警備などに関する米軍側と日本側の協力
在日米軍再編統轄部会
在日米軍基地や部隊配備などの再編に関する問題
検疫・保健分科委員会
感染症への対応を始めとする保健・衛生上に関する問題
日米合同委員会はニュー山王ホテルで開かれる
ニューサンノー米軍センター(ニュー山王ホテル)の館内の雰囲気は純アメリカ風にまとめられており、米軍関係者専用の高級宿泊施設や会議場も備わっている。
駐日アメリカ大使館の関係者も利用できるが、それら関係者以外は原則として立ち入り禁止だ。会話は英語、支払いは最近ではドルと円の両方が使えるようだ。壁面はレンガ色で7階建ての外観は確かにホテルである。
しかし、入り口に立っているのは普通のドアボーイではない。黒ずくめの制服を身にまとい警棒、拳銃を装備した屈強な警備員なのだ。ここは米軍基地であり、日本の中にあるアメリカだ。
ちなみに、日米合同委員会の英語名は「U.S.-Japan Joint Committee」、または「Japan – U.S. Joint Committee」である。
日本人の警備員が銃を携帯
警備員の制服の右腕には星条旗のワッペンが付いている。だが、彼らは米軍の兵士ではなく日本人である。
沖縄など各地の在日米軍基地では、入口などの警備に銃を携帯した日本人の基地従業員が就くことがある。おそらく、ここも同様の態勢をとっていると考えられる。
日本では銃刀法により、銃の所持は警察や自衛隊などの一部の職種に限られているが、警備員という仕事では銃の携帯は認められていない。
それなのになぜ米軍基地では、日本人の警備員が銃を携帯できるのだろうか。不思議なことに日米地位協定には、これについて何の規定も存在していない。
日米合同委員会のメンバー構成
- 日本政府の中央官庁の高級官僚(日本のエリート官僚)
- 在日米軍の高級軍人(アメリカのエリート軍人)
- アメリカ大使館の外交官
日米合同委員会は上記のメンバーで構成されている。日本政府は日米合同委員会の詳しいメンバー数を公表していないが、過去に刊行された書籍にはそれについて書かれたものがある。
『安保・沖縄問題用語辞典/田沼肇・編 1969年』によると、日本側メンバーである各省庁の担当者は1969年当時で147人だったという。
さらに、『軍事基地の実態と分析/基地問題調査委員会編1954年』によれば、日米合同委員会の発足当初のアメリカ側メンバーは70人だったと言われている。
おそらく現在の参加メンバーも当時と同等の規模かそれ以上の態勢がとられていると考えられる。
アメリカ側代表はほぼすべて軍人
注目すべき点は、アメリカ側代表・委員が在日米大使館公使をのぞいて、すべて軍人で占められていることだ。日本側代表の官僚は文官なので、通常の国際協議であれば、相手国側も文官であるはず。
ところが、なぜか日米合同委員会は立場が違う文官と軍人の組み合わせでおこなわれ、それは発足時からずっと続いている。そのため、米側は常に軍事的観点から協議に臨み、軍事的必要性に基づく要求を出してくる。
彼らは米軍基地の運営や訓練、すべての軍事活動を円滑におこなうことを最優先にしている。米軍に巨大な特権を与える日米地位協定。その規定がある以上、アメリカ側の要求がほとんど通ってしまうのが現状である。
本会議と下部組織
地位協定25条には、日米合同委員会は「必要な補助機関および事務帰還を設ける」とある。本会議である日米合同委員会の下には補助機関として「各種分科委員会」や「各種部会」などの下部組織がおかれている。
- 本会議(日米合同委員会)
- 各種分科委員会・部会(常設)
- 特別分科委員会・特別作業班・特別作業部会(期間限定で設置)
この下部組織は各分野の実務的、技術的な問題を協議する。ほとんどの分科委員会が1952年の日米合同委員会の発足とともに設置され、常設の組織となっている。
一方、最下部の組織である「特別分科委員会」、「特別作業班」、「特別作業部会」は、ある問題について一定期間協議するために設置され、課題が解決すれば活動停止か廃止になる。
本会議と、これら分科委員会や部会などを含めた全体が日米合同委員会と総称されるものなのだ。
議長役は日米交互に努める
日米合同委員会の議長役は、日本側代表(外務省北米局長)とアメリカ側代表(在日米軍司令部副司令官)が交互につとめ、双方の代表のほかに代表代理らが出席する。
日本側が議長役を務める回は「ニューサンノー米軍センター(1983年設置)」にある在日米軍司令部専用の会議室で開かれる。ニューサンノー米軍センターができる以前は次の場所で開かれていた。
- 山王ホテル士官宿舎:旧山王ホテル
- 米極東軍司令部:現在の防衛省がある新宿区市ヶ谷にあった
- 在日米陸軍司令部:キャンプ座間(神奈川県)
なお、本会議以外の分科委員会や部会などは上記の米軍施設や外務省、各関連分野を管轄する日本の各省庁などで随時開かれている。
本会議が開かれるのは木曜日
日米合同委員会の本会議は1952年の発足当初は毎週木曜日に開かれていた。その後、1950年代半ばから2週間おき、または1週間おきの木曜日に開かれるようになった。
1952年5月7日に第1回が開かれ、1960年6月9日の第233回まで続いた。そして、1960年の日米安保改定で「行政協定」から「地位協定」に変わったのを境に新たに会合の回数を数えなおすことになった。
回数リセット後の第1回本会議は1960年6月23日に開かれた。それを機に本会議は「隔週の木曜日午前11時」から開催された。また日米どちらかの代表の要請があれば、すぐにでも臨時会合も開けることになっている。
現在までに1600回以上開かれている日米合同委員会
日本政府は日米合同委員会の会合の回数を公表していない。しかし、毎月隔週の木曜日に開催されていることから、一年に25回から26回は開催されていることになる。
1960年から始まった日米地位協定下でも1400回以上は開かれており、合計で1600回以上という計算になる。それ以外の各自の会合も含めると、さらに数は増えるだろう。
2023年3月、参議院予算委員会でれいわ新選組の山本議員が日米合同委員会について追及する場面があった。
これまで1000回以上も会議が行われていながら、その時、外務省から国会へ提供された会議資料はたった数枚の紙切れだけだった。
二重基準 ご都合主義のダブルスタンダード
2015年、「沖縄での米軍による県道の共同使用に関する日米合同委員会の議事録などを含む文書」を沖縄県が情報公開条例にもとづく住民の開示請求に応じて公開したことに対し、国(日本政府)は開示決定の取消を求めて那覇地裁に提訴した。
この裁判で国側は日米合同委員会の議事録などは「日米双方の合意がない限り公表されない」と主張し、その根拠となる合意を記した1960年6月の地位協定発効後の「第1回日米合同委員会の議事録の一部」を証拠として提出した。
日本政府は自らが提訴した裁判では自説に有利になるように非公開としてきた合同委員会の議事録の一部を公開した。これは二重基準、ご都合主義のダブルスタンダードに他ならない。
- 『日米合同委員会の研究/謎の権力構造の正体に迫る』/吉田敏浩著
- 『日米戦争同盟/従米構造の真実と「日米合同委員会」』