不思議な話

【満州人脈】国際勝共連合と旧統一教会

満州人脈とは満州国に存在した右派勢力のことである。彼らは戦後日本の政治に大きな影響を与えたとされる者たちだ。

満州人脈の中には日本人だけでなく朝鮮の親日派の人物たちも含まれており、彼らは戦後韓国の軍事独裁政権の中で大きな影響力を及ぼした。

戦後日本では、この満州人脈といわれる者たちが反共勢力の「国際勝共連合」「旧統一教会」「自民党清和会」といった組織の設立に関わっていたという。

日本における満州人脈

満州国で実質的に支配層を形成していたのは次の者たちだった。

  • 日本人上級官僚
  • 大陸右翼、満鉄調査部の関係者
  • 二・二六事件に関与した軍人
  • 共産主義者からの転向者

彼らはソ連の経済政策を参考にして、満州国の経済実績をあげた。ここで培われた経済統制の手法は戦時体制の確立や戦後日本の経済政策にも生かされていく。

岸信介や児玉誉士夫などの大物が名を連ね、戦後保守政治に影響力を及ぼした。

国際勝共連合

1968年、文鮮明がソウルで「国際勝共連合」を設立した。それとほぼ同時期に岸信介児玉誉士夫笹川良一などが発起人となり、この韓国由来の反共団体の日本支部が東京に誕生した。

当時の韓国大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)は戦前、日本の陸軍士官学校(第57期)に留学後、満州国軍の中尉となりそのまま終戦を迎えた。戦後、朴政権下の韓国で旧統一教会は急拡大する。

岸信介は革新官僚として満州経営に携わっていた。戦前、岸信介と朴正煕、文鮮明の三人に面識はなかったが、満州人脈の一つとみなすべきだろう。

満州建国と発展

満州事変を経て建国された満州国は資本力が乏しく、社会インフラも整ってなかった。既得権益を持つ資本家が少なかったため権力が介入しやすく、上からの統制経済に適応する下地があった。

これにより戦前の満州国は重工業化が進み、実験国家などと称された。石原莞爾は、いずれ起こりうる欧米近代国家との戦いのため、日本は満州を保持して工業力を高めなければならないと説いた。

戦後、この満州に関わった者たちが様々な分野へ進出していく。満州を接点とした「満州人脈」は戦後日本の再建にとって無視できない存在であった。

児玉機関と自民党清和会

戦後、鳩山自由党(のちに吉田茂の自由党と合併し自民党となる)の結党時に膨大な資産を結党資金に提供したのが児玉誉士夫だった。

児玉は青年期に満州に渡り、その経験を活かし戦中は陸軍の物資調達機関であった「児玉機関」のリーダーとして上海を中心に工作活動をおこなった。

この児玉機関が戦中、陸軍に協力して報酬として受け取った資財(金・銀・銅・ダイヤモンド・粗鉄・ニッケル・ボーキサイト)をもとに設立されたのが岸信介を源流とする鳩山自由党であり、のちの自民党清和会である。

満州人脈と巣鴨プリズン

岸信介、朴正煕、児玉誉士夫は満州人脈でつながっている。笹川良一は満州での活動経験はなかったが、1931年に右翼団体「国粋大衆党」を結成し、ムッソリーニのイタリアを手本にしたファシズム国家建設を志した。

この国粋大衆党の幹事長を務めていたのが児玉誉士夫である。岸、児玉、笹川の三名はGHQによりA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに長期間収監されていた。死刑を逃れ、釈放されると見事「親米」に転向していた経験をもつ。

この満州人脈といわれる戦前からの体制を担った勢力が戦後日本をそのまま牛耳り、韓国由来の反共団体「国際勝共連合」を設立させた。国際勝共連合と旧統一教会は書類上は別の団体であったが、実質的には一体だった。

国際勝共連合と旧統一教会

国際勝共連合と旧統一教会。この2つの組織は実質的には一体である。

日本での国際勝共連合の設立は旧統一教会の日本進出を認めることであり、その後、日本での旧統一教会の布教活動は活発になる。

そこには反共を推進するという「おじいちゃんの代からの計画」があり、その背後には米国の極東戦略が存在した。このようにして旧統一教会は日本の保守勢力に接近していった。

参考:『古谷経衡著/シニア右翼』

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