戦後の日本は米国のスパイが暗躍し、方針を決めていたという話がある。
日本はどのような出来事を経て戦後復興を終えたのか。
戦後日本の情勢で気になる出来事について振り返ってみる。
- 朝鮮戦争勃発にともなう日本経済の浮上
- 戦後復興と力道山の登場
- 戦後日本で暗躍する米国のスパイ
朝鮮戦争勃発にともなう日本経済の浮上
17世紀から20世紀にかけて世界権力(国際金融資本)は欧州と米国を乗っ取った。次の標的は日本である。
国家の侵略に必ずしも武力が必要とは限らない。目に見えない何かは静かにゆっくりと我々の社会に浸透し、その存在に気づいた時には手遅れになっていることも珍しくない。
現在、日本国民の多くは経済的に追い込まれ、一部の裕福な者たちも外国勢力の利己的な思想に汚染され、崖っぷちである。日本の侵略が終われば、下記のように全世界の乗っ取りフェーズに移行するのだろう。
欧米世界の乗っ取り
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第二次世界大戦の勝利
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日本の乗っ取り
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全世界の乗っ取り
1945年8月、日本国は大東亜戦争(日米戦争)に敗北した。不敗の神風、日本を信じていた国民は虚脱状態に陥ったが、日本国民は廃墟の中から立ち上がり、たくましく経済成長していった。
そのような奇跡を起こせたのは、さまざまな理由が考えられる。
背後には世界権力の存在があり、戦後の日本経済が浮かび上がった要因の一つに「朝鮮戦争」があった。
朝鮮戦争(1951〜53年)の勃発と日本再生
朝鮮戦争は米軍事産業の「在庫処分戦争」だった。彼らは第二次世界大戦が終わり、不要となった兵器の在庫を大量処分するため、アジア人同士を争わせた。
現在進行形であるが、当時の日本は米軍に支配されていた。米軍が朝鮮半島に出撃するには日本列島を基地として利用しなければならない。
そこで彼らは日本の経済力、軍事物資の生産力を高めようと考えた。大日本帝国の敗北後、日本の有力企業は世界権力の所有物となっていた。彼らは日本企業の売上を拡大することにした。
日本の財閥の復活
戦後の日本は占領軍による財閥解体が進められたが、朝鮮戦争の勃発により、その話は立ち消え、財閥が復活したとされている。
だが、その実態は世界権力が戦後のゴタゴタの中で日本の有力企業(財閥企業)を所有し、その売上拡大を望んだ。
戦後の日本に影響を及ぼした世界権力の内部には次の2つの集団が存在した。
- 日本企業を所有し、その売上拡大を図りたい集団
- 日本の国民を戦えない耕作奴隷にしたい集団
当時の米国は戦後の日本を農業列島に変革しようと計画していた。
それゆえ、彼らは日本中の地主から農地を取り上げる農地改革を断行した。それは日本人全員を農民にすることを意味する。
だが結局のところ、彼らは朝鮮戦争を実施する必要があったため、日本列島農業化計画は廃棄されるのだった。
力道山のプロレスと戦後の日本
1950年代、敗戦後の日本国民は生きる気力を失っていた。その日本国民を力づける大きな要因となったのは「力道山のプロレス」だった。
敗戦国(力道山)が戦勝国(米国人レスラー)を空手チョップでやっつける。これは先の大戦で惨敗した日本国民にとっての欲求不満解消となり、力道山のプロレスは巨大なブームとなった。
1954年2月19日、東京の蔵前国技館で日本初のプロレス国際試合が開催された。この試合はNHKと日本テレビで放送され、関東地区では220ヶ所に街頭テレビが設置された。
プロレスの国際試合は「日本vs米国」ではなかった
日本初のプロレス国際試合は「力道山・木村政彦VSシャープ兄弟」の対戦だった。マスコミは日米対決を煽ったが、実のところシャープ兄弟はカナダ人でありアメリカ人ではない。さらに力道山も日本人ではなく在日朝鮮人だった。
つまり、この試合にはアメリカ人が参加していない。日本人も柔道出身の木村政彦だけであり、この試合は日米対決でもなんでもなかったのだ。
戦後の日本を勇気づけた力道山のプロレスはショービジネスだった。映画などのショービジネスはユダヤのビジネスだ。米国の舞台や映画関係者にユダヤ人が多いことは周知の事実である。あのチャップリンも東欧からのユダヤ移民の子だった。
世界権力からの贈り物
ショービジネスを動かすのは「偽ユダヤ人(カザール民族=アシュケナージ)」だった。彼らは大衆を操る手法を熟知していた。
戦後の日本人を力づける大きな要因となった力道山のプロレスは、彼ら世界権力からの「贈り物」だった。
こうして戦後の日本国民は3つのSにはじまる幻想の世界を見せられて、必死に働くことになった。
戦後復興の終わり
戦後日本の復活には世界権力が関与していた。国民は彼らのロボットとして育成された。それは超古代における上位の存在が地球での金の採掘のために人類をつくりだしたことに似ていた。
大東亜戦争で敗北後、1956年の『経済白書』では「もはや戦後ではない」と宣言するまでになった。これは日本の「脱・戦後」の1つ目のステップと言えるだろう。2つ目のステップは力道山の死だ。
1963年12月の「力道山の死」で戦後復興の時代は終焉を迎えたのだろう。2012年に発行された週刊誌のプロレス特集には次のように書かれていた。
「日本テレビの創業者・正力松太郎をして『プロレスはテレビで普及し、テレビはプロレスで普及した』といわしめた力道山は、戦後復興の象徴であった」
『週刊現代2012年4月13日号』
戦後日本で暗躍する米国のスパイたち
戦後日本の動向には、すべて米国スパイの関与があった。正力松太郎はCIAのスパイであり、コードネームは「ポダム」だ。日本テレビを創業し、日本にプロレスを持ち込んだ。
彼は読売新聞の経営者として米国追従の論陣を張り、さらには国会議員として日本に原子力を持ち込んだ。
当時、米国のスパイは彼だけではなかった。統○とも関わりが深いことで知られる、おじいちゃんの代から〇〇Aなど多く存在していた。
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