オルトン・グレン・ミラー(Alton・Glenn・Miller)は、1920年代から40年代にかけて大人気となったアメリカのジャズ・ミュージシャンだ。
彼は、第二次世界大戦中のヨーロッパで小型飛行機に乗って英仏海峡を縦断中に行方知れずとなり、その死因についてはさまざまな憶測を呼んでいる。
この記事では、人気絶頂の中、突然姿を消してしまった「グレン・ミラーの死因の謎」について見て行く。
- グレン・ミラーの死因について
グレン・ミラーとは
1937年、ミラーは自身のビッグバンド、「グレン・ミラー・オーケストラ」を結成する。彼らは「ムーンライト・セレナーデ」や「茶色の小瓶」、「イン・ザ・ムード」などのヒット曲を発表し、大物ミュージシャンの仲間入りを果たした。
1938年、第二次世界大戦の勃発にともない、ミラーはアメリカ陸軍航空隊に入隊すると、国内外の慰問演奏やラジオ番組を企画して兵士たちの士気を高めるのに貢献した。
翼とともに
ミラーは、のちにビートルズで有名になるロンドンの「アビーロード・スタジオ」で最後の曲を録り終えると、フランスへ行き「翼とともに “I Sustain The Wings”」というコンサートを開催する予定だった。
「sustain」という言葉には「元気づける・励ます」といった意味がある。wingには「羽・翼」という意味の他に「飛ぶ・飛行機で旅行する・飛行機による航空部隊」といった意味がある。
飛行機で移動中に消息を絶つ
1944年12月14日、ミラーはフランス行きの飛行機に同乗させてもらえると考え、ロンドンから車でミルトン・イースト空軍基地に向かった。だが運悪くパリ行きの便はなかった。
微かな期待を込めて、今度はツインウッドファーム空軍基地へ向かうと、アメリカ空軍のノーマン・ベーゼル中佐が翌日の便を用意してくれることになった。
1944年12月15日午後1時55分、ミラーとベーゼル中佐の部下と空軍パイロットのジョン・モーガン准尉の3名を乗せたノースマン機は濃い霧が立ち込めるなかフランスへ出発し、イギリス海峡上で消息を絶っている。
グレン・ミラーの死因にまつわる4つの説
世間に広まっているグレン・ミラーの死因は、飛行機の機器が故障したことによる墜落事故とされている。当日は気温が低かったため、「キャブレター(燃料供給装置)が凍結したこと」が原因だったというものだ。
しかし、この説には反論もあがっている。その日は確かに霧が濃かったが、気温は5℃で機器類が凍結するほど低温だったとは言えないというのだ。
グレン・ミラーの死因。つまりミラーが消息を絶った原因は「飛行機の機器トラブル説」だけにとどまらず、いくつかの説が語られている。
- 自殺説
- 肺ガン説
- 腹上死説
- イギリス空軍の誤射により撃墜した説
①自殺説
ミラーの実の弟ハーブ・ミラーは、「当時ミラーは不治の病を抱えていた」と主張している。
その主張から、ミラーは死の恐怖から逃れるために小型飛行機に乗り、「飛び降り自殺を図った」のかも知れないと考える者もいる。
あの日、ミラーは自分が乗る飛行機に「パラシュート」が装備されていないことを妙に喜んでいたという。
②肺ガン説
グレン・ミラーの弟のハーブ・ミラーは「兄は軍の病院で肺ガンで死亡した」と断言し、世間の噂に反論した。ミラーは行方不明になった当時、健康状態が悪く、ヘビースモーカーで体重は激減してやせ細り、軍服もダボダボだった。
1944年の夏、ミラーは弟に手紙を書き、やせ衰えて呼吸が苦しいと訴えている。慰問楽団の仲間たちには、「君たちだけで帰国してくれ。僕は無理だ」と話していた。
弟ハーブの話が事実なら、政府や軍によりミラーが病死したことは伏せられていたことになる。アメリカの大スターが病を患い、苦しんで死を迎えるよりも、謎めいた事件に巻き込まれたという方がセンセーショナルで宣伝効果があるからだろうか。
③腹上死説
「ミラ―が腹上死した」という耳を疑うような説も存在する。
この説によれば、濃い霧の中、プロペラ1個の単発機で飛ぶことを嫌がったミラーは空の旅をキャンセルし、別の方法でフランスに向かったとしている。
その後、パリについたミラーは売春宿でお遊びに興じて腹上死したという噂だ。健康状態が良くなかったことを考慮すれば可能性はなくはない。この時、ミラーはまだ40歳だった。
④イギリス空軍の誤射により撃墜した説
グレン・ミラーの乗った飛行機が「イギリス空軍の爆撃機ランカスターの誤射により撃墜した」という説も存在する。とはいっても、これを誤射というのかどうかは微妙だ。
イギリス空軍の爆撃機ランカスターはドイツのジーゲンという地域を攻撃するため出動した。しかし、護衛機が不足しているという理由で呼び戻され、イギリスのノーフォークにある基地に向かっていた。
ただし、「発射直前の爆弾をフル装備した状態で基地へ帰還するのは非常に危険」なため、このような場合にはビーチ―岬南部のイギリス海峡に16キロ四方で設置されている「爆弾投棄エリア」に立ち寄り、「爆弾を投棄してから基地へ戻ることが通例」となっていた。
乗組員の証言
ランカスター機の乗組員3名がのちに証言している。彼らが高度1,200メートルから爆弾を投下したとき、そのちょうど真下の高度700メートル付近に「単発機のノースマンが飛んでいて、爆弾の雨に当たり落ちていくのが見えたのだ」という。
ミラーの乗ったノースマン機は、連合軍最高司令部に指示されたルートにしたがって、飛行場からイギリス南部に向かっていたはずだが、もしフランスへ向かう途中で爆弾投棄エリアを通過したのだとすれば、ミラーたちの飛行経路は南東にそれていたことになる。
もしかしたら、モーガン准尉の操縦するノースマン機が濃霧のせいで方向を見失い、予定航路からはずれて、ドンピシャリのタイミングで爆弾投棄エリアのど真ん中に突入してしまったのだろうか。
その日の飛行日誌によると、ランカスター機の爆弾投棄は午後1時43分に開始されている。
爆撃機の乗組員フレッド・ショーの主張
当初、ミラーの行方不明事件は隠蔽され、ランカスター機の乗組員も墜落事件に関して口にすることがなかった。だから誰も「ノースマン撃墜事件」と「ミラーの行方不明事件」との関連に気づかなかったのだ。
ところが終戦を迎え、ランカスター機の乗組員だった「フレッド・ショー」は、映画「グレン・ミラー物語」をたまたま観たことで、突然頭の中で2つの事件が結びつき、背筋が凍り付いた。
フレッド・ショーは昔の飛行日誌をすべて探し出し自身の見解を公表した。だが、イギリス空軍やグレン・ミラー評価協会からは失笑を買っただけだった。
このとき、フレッド・ショーの主張が相手にされなかった理由は2つある。
- ノースマン機とランカスター機の飛行時間には少なくとも1時間のズレがあり、両機が爆弾投棄エリアで鉢合わせするはずがない
- 当時、ノースマン機はイギリスに5機しか無い珍しい機体だったので、フレッド・ショーが他の飛行機とノースマンを区別できるはずがない
歴史家ロイ・ネズビットの指摘
フレッド・ショーの主張には、このような反論があったにもかかわらず、歴史家ロイ・ネズビットはフレッド・ショーの見解を大々的に支持した。
ネズビットは上記の反論に対してこう指摘している。
①1時間のズレがあり爆弾投棄エリアで鉢合わせするはずがない
第二次世界大戦中、イギリスに派遣されたアメリカ兵は地元の時間で飛行日誌をつけていた。
だが、これはグリニッジ標準時を採用しているイギリス空軍よりも1時間進んでいる(1時間早い)。
この時差を考慮すれば、ミラーの乗ったノースマン機は投棄エリアで激しいスコールを浴びていたことになる。
②フレッド・ショーが他の飛行機とノースマンを区別できるはずがない
フレッド・ショーが、当時のイギリスでは珍しかったノースマン機を識別できた理由もハッキリしている。
実はフレッド・ショーはカナダ育ちで、カナダで飛行訓練を受けていた。そのときに使用していた機体も地元カナダ、ノールダイン社製のノースマンだった。
カナダでならノースマンはあちこちで見かけるので珍しくない。「フレッド・ショーはノースマンという機体をもともと知っていたのだ」。
機長ヴィンセント・グレゴリーの証言
グランミラーの死因に関してさまざまな討論がおこなわれる中、ついには当時ランカスター機の機長だったヴィンセント・グレゴリーが登場し、フレッド・ショーの主張に賛同したのだ。
元機長のグレゴリーは、この件に関して次のように述べている。
「無慈悲だと思わないでください。あのころ私は皆にこの件については忘れるようにと、それだけを伝えていました。ミラーがあそこにいなければ良かったのに。戦争だった。周囲の人が次々と死んでいく。私の任務は自分の飛行機と部下を無事に帰還させることだったのです」
イギリス人のダイバーが残骸を発見
1985年、イギリス人のダイバー、クリーブ・ウォードがイギリス海峡でノースマン機の残骸を発見した。
すでに、イギリス国内にあったノースマン機の残りの4機の所在は分かっていたので、この海に沈んだ残骸こそ、まさにミラーたち3名を乗せて姿を消したノースマンだった。
しかし、ウォードの懸命な調査にもかかわらず、「残骸の中にも付近の海底にも遺骨は見つからなかった」。
あとがき
意図したことではなかったにせよ、当時のイギリス空軍が不要な爆弾を投棄したことが、偶然にもその空域に居合わせた大人気ミュージシャンの命を奪ってしまった可能性は高い。
だが、もしイギリス軍が爆弾を投棄していなかったとしても、グレン・ミラーは刻々と忍び寄る死の恐怖から逃れるため、パラシュートのない飛行機に乗り、スカイダイビングを決行したかもしれない。
今宵は伝説のミュージシャンが翼とともに安らかに旅立ったところを思い浮かべながらムーライトセレナーデでも聞くとしよう。