寛容のパラドックスと排外主義について
現代社会で再び注目されている「寛容」と「不寛容」。多様性を尊重しよう、あらゆる意見を認めよう、このような価値観は今の社会にとって非常に大切なものだ。
しかし、同時にSNSや街頭でのヘイトスピーチ、陰謀論の拡散など、「本当にそれらすべてを受け入れていいのか?」といった疑問も強まっている。
この矛盾を説明する考え方が哲学者カール・ポパーの提唱した「寛容のパラドックス」だ。パラドックスとは逆説という意味だ。
寛容のパラドックスとは?
ポパーは次のように述べている。
「無制限な寛容は、やがて不寛容な者によって滅ぼされる」
もし、社会がどんな思想(考え方)にも寛容であり続けるなら、他者を攻撃し排除する「不寛容な思想」が力を持ち、最終的には寛容な社会そのものが破壊されてしまう、という警告なのだ。
つまり、いくら寛容さが大切だとしても、差別や暴力を認めてはならないということなのだ。それは寛容さの中には含まれないものだ。
不寛容とは何か?
ここで誤解していけないのは、「不寛容な人」というのが「単に自分と意見が違う人」を指しているのではない、ということ。
不寛容とは次のような行為や考え方を指す。
- 他者を暴力で排除しようとする
- ある集団の権利や尊厳を否定する
- 対話を拒否し、議論の場を壊す
過激な排外主義や人種差別、あるいはデマ、陰謀論などが例に挙げられる。
例えば、ある政党が街宣活動をやっていて、そこで「なんたらファースト」などと排外主義的な主張したり、それにつながるデマや陰謀論を拡散する。
また、そのような政党の様々な差別的主張に抗議するべく集まった市民の声に耳を傾けることもなく、政党の支持者やスタッフが抗議者に暴力を振るったり、その場から排除しようとしたりする場面も見られる。
寛容と不寛容の違い
- 寛容な人:自分と違う意見でも話を聞く
- 不寛容な人:自分と違う意見を認めず攻撃する
ポイントは「意見の違い」は問題ではない、ということ。問題なのは「他の人を排除したり、暴力や差別を正当化する態度」だ。
寛容のパラドックスは「言論弾圧」を正当化するのか?
よくある勘違いは「都合の悪い言説を黙らせるための口実だ」というもの。でもこれは間違いで次のようなシンプルな話なのだ。
- 普通の意見の違い → いくらでも議論すべき
- 暴力や差別をあおる → 社会として止める必要がある
それについてポパーは暴力を伴わない議論は自由にすべきである。ただし暴力や排除を正当化する言説について社会は警戒すべき、としている。
「気に入らない意見は排除しよう」ではなく、「排除を正当化する行為は止めないと皆が危ない」という考え方であり、「言論の自由を奪ってしまえ」という話ではない。
つまり、自由な議論を守るためのラインを設けるべき、という考え方だ。
SNS時代における寛容のパラドックス
SNSから距離を置いている僕が言うのも何だが、現代社会ではポパーの指摘がより深刻化しているように思える。
歴史を振り返ると、「排除を叫ぶ不寛容な人たち」が優しい人たちを圧倒して、社会全体が不自由になった例がある。
今のSNSでも似たようなことが起きている。
- 誤情報が瞬時に拡散される
- 過激な発言ほど拡散される
- デマを信じた人が攻撃的になる
- 誰かを悪者扱いして、ある集団を攻撃する
- 匿名性が無責任な攻撃を助長する
寛容な場所ほど、不寛容な言動が猛威を振るいやすくなる。
寛容を守るつもりが、不寛容を増幅してしまうような仕組みがそこには存在するからだ。
だからこそ、「どこまで寛容であるべきか?」という哲学的な問いかけが政策やSNS運営といった現実的問題には必要なのだ。
必要な対応策
- ヘイトスピーチの規制
- デマ拡散のチェック
- 正しい情報を学ぶ教育(情報リテラシー教育)
- SNS運営のルール作り
あとがき
差別主義者が「オレたちの差別する自由と権利を認めろ」とか、「差別する人を批判するのは差別だ」とか言ってるのを聞いてると世も末だなあと感じる。怒りや呆れを通り越して憐れみすら湧いてくる。
必死に蜘蛛の糸を掴んでよじ登ろうとするけど、その糸はどこに繋がっているのだろう。どこにたどり着くのだろう。そんな糸は登り終える前にきっと切れてしまうのではないか。そして真っ逆さまにどこまでも落ちていく。
「寛容さ」とは、すばらしい価値観だけれども、それは何でも無制限に認めるという意味ではない。むしろ「寛容さ」を守るために「不寛容(不当な差別・排外主義)」に対して立ち向かう必要がある。寛容とは弱さではなく、社会の自由や尊厳を守るための強さなのだから。

