ある冬の夜雨に傘泥棒に遭う
昨日の晩は雨が降っていて、そんなに気温も下がらず暖かい夜だった。
ウチの奥さんの仕事が終わった後、職場の忘年会があるというので、いつもより迎えに行く時間は遅めだ。
自宅から職場までは車で20分くらいの距離だった。忘年会が催された居酒屋はさらに10分くらい南の方に走った場所にある。
21時半、「忘年会が終わったので迎えに来て」と携帯に連絡があった。
今住んでいる部屋はアパートみたいなマンションなのか?マンションみたいなアパートなのか?
不動産的な知識に疎いもので、そのへんはイマイチよく分からないが、たまたま選んだこの物件は駐車場が一体ではない。
アパートの前には片側一車線だが結構、車の往来が激しい道路が通っている。
道路を渡って、住宅街に続いている細長い坂道を少し登った所に駐車場がある。部屋と駐車場が離れていて車を取りに行くのが少し不便である。
居酒屋は、車では入りづらい細い路地裏にあった。なので待ち合わせ場所は表の大通り沿いにある大きな郵便局の前にした。
小雨の中、車を走らせ目的地に到着すると、紺色の小さな折り畳み傘を差した奥さんが立っていた。
薄暗がりの中で首に巻いた真っ赤なマフラーだけが浮き上がって見えており、バッチリ目印の役割を果たしていた。
奥さんを車に乗せて家へ向かう道すがら、雨が強くなってきて、いつの間にか小降りから本降りになっていた。
僕も駐車場から自宅までの徒歩区間は後部座席に積んでおいた傘を差して歩くことになった。傘は、コンビニで買える少し大きめの透明なビニール傘で持ち手の部分が黒いタイプのやつだ。
傘を差しながら二人で坂道をてくてくと下っていると、ポテトチップスを切らしていることを思い出し、近所のコンビニで買って行くことにした。
コンビニの出入り口には、長方形で10本くらい収納できるサイズの傘立てが置いてあった。正面から見て一番右上の穴にはすでに少し大きめのビニール傘、持ち手が白いタイプのやつが差してあった。
僕は一番左上の穴に傘を差した。奥さんは、自分の折り畳み傘を僕のビニール傘の黒い持ち手の部分に上手く引っ掛けて、乗っけていた。
店内に入り、買い物をして外に出てくると、傘立てに差してあったはずの僕のビニール傘が無くなっていた。
その上に載っていた奥さんの折り畳み傘も傘立てから30センチくらい離れた地べたに投げ捨てられていた。
その場で互いに顔を見合わせて、いったい何が起きたのかと呆気に取られていた。そして、やられた、盗まれたのだ、と次の瞬間理解した。
生まれてこの方、50年余りの人生の中で傘ドロボーに遭ったのは初めての経験だった。
生まれてから40年以上暮らした横浜でも、その後、移り住んで8年ほど過ごした宮崎でも傘を盗られることなんて無かった。それなのにナゼだ。長崎に来てまだ1年も経っていないというのに・・・。
相合傘で自宅に着くまでのあいだ怒りが収まらず、歩きながらブツクサと切れ散らかしていた。僕のブチギレ具合に奥さんはいつものごとく大笑いしているのだった。
アナタが持って行ったその傘は今まさにあなたがいたコンビニでも売っていて、買おうと思えばそこで買える物なのだ。
貧すれば鈍する。外圧かそれとも政治家の怠慢か。日本経済が数十年かけて萎んでいき、働けど働けど賃金上がらず、挙げ句の果てには二つも三つも仕事を掛け持ちして、やっとこさ暮らしている人もいる。
そんな、ぶっ壊された経済と社会構造がこういう所にも影響を及ぼしているのだろうか、傘ドロボーは衰退国家の縮図だ、などと感傷に浸ってしまいそうだ。
何言ってるんだ、高度経済成長期からバブリーな時代にも傘をパクるヤツなんてのはいくらでもいたし、いつの時代にもいる。国の経済とかそんなの関係ない大袈裟だ。そんな声も聞こえてきそうだが、何ともいたたまれない気分だ。
今の天皇陛下(今上天皇徳仁)が若い頃、英国のオックスフォードに留学していた時にお気に入りの傘を盗まれたという話をふと思い出していた。
「間違えて持っていったのか、故意に盗んだのかは分らないが、誰かが濡れずに帰ったのだと思えば、それなりの貢献をしたことになろう」と陛下は仰っていた。
罪を憎んで人を憎まず。僕にも、そのような大きな心、懐のデカさ、寛容さが欲しいと思わずにはいられない。海容。でも、きっとそこには遠く及ばないのだ。
陛下と違って幸運だったのは、盗られた傘がお気に入りの物ではなく、コンビニで買えるビニール傘であったこと。あとは傘一本と引き換えに、それをネタにして徒然なるままにこんな文が書けていること。
次の日の朝、もう雨は止んでいた。午前8時30分、日課のウォーキングに行く。近所の遊水池の周りを歩いているのだけど、昨夜、惨劇のあったコンビニの前を通っていく。
雨は止んでいるのに昨日の晩の傘立てが出しっぱなしになっていた。傘立ての一番右上の穴に一本だけ傘が差してあった。
それはコンビニで買える少し大きめのビニール傘で僕の盗まれた傘によく似ていたが、よく見ると持ち手の部分が白いタイプのやつだった。
