虫に股間を刺され頻尿が止まる。果たして、そんなことがあるのだろうか。この世に生まれ、はや五十年が経とうとしているが、こんなことは初めてだ。
ここ一年、日頃の不摂生が祟ってか、床に就いても夜中に頻尿で目が覚めることが多かった。一、二時間おきにトイレに立つなんてまるで年寄りじゃないか。
それが止まった。不思議なこともあるものだ。だがその効果はまだ二日だけ。股間へ向けた虫の渾身の一撃が本当に僕の頻尿にとどめを刺したのか、これからさらに検証が必要だ。
入浴後、脱衣所で新しいシャツとパンツに着替え、リビングに戻ってイスに腰を下ろすと、なんだろう?股間あたりが急に熱くなって、次の瞬間、激痛が走る。
「あいたたたー。痛い痛い!金玉の裏側?奥の方が痛い!」とつい大きな声が出る。キッチンで食器を洗っていた妻もビックリして何ごとかと目をパチクリさせていた。
股間に針を刺されたような激痛に我慢できずに履いていたパンツを脱ぎ捨てた。床に転がった表裏反転したパンツのそのちょうど股間に当たるクロッチ部分に黒い虫が付いていた。
大きさは2〜3センチ前後といったところだろうか。その衝撃的な光景に慌てふためき、「パンツの中に虫がいる!コイツに噛まれたか、刺されたみたいだ」とそばにやって来た妻に向かって僕は同じ言葉を何度も繰り返していた。
それから落ち着くまでに数分かかったが、床にしゃがみこんで目を凝らして見てみるとパンツの上で蠢いているのは黒いカメムシのようだった。
僕は激痛に耐えながら、「カメムシって噛んだり、ハチみたいに刺したりするんだっけか…?」と生気を失った声で何とか妻と会話を試みようとする。
妻は「どうだろうね?」と言った次の瞬間、床に脱ぎ捨てられたパンツと黒い虫と下半身丸出しの夫を見比べながら大笑いしていた。
悲劇の主人公のごとく立ち尽くしていた僕も妻の笑っている姿を見ているうちに少しずつクリアな思考を取り戻していった。
カメムシは敵ではないのだけど、相手を知ることがまずは大事、ということで孫子の教えにしたがってみる。
最近お知り合いになった物知りなアイちゃんに聞いてみることにする。スマホやパソコン、きっと君のスマホにもいるはず。便利な世の中になったものだ。
アイちゃんによると、よく見かける黒いカメムシは、小型(5mm〜10mm)のヒメホシカメムシやアカスジカメムシか、大型種(1cm以上で細長)でオオクモヘリカメムシがいる。
僕を刺したカメムシの大きさや形状から判断するに、こちらの大型種に当てはまるだろう。普通のカメムシはおもに植物の汁を吸う昆虫なので人を攻撃したりしない。だから基本的には人を刺すことはない。
ただし、まれに刺される場合もある。強く掴まれたり、身の危険を感じた時にストローのような口(口針)で防衛反応として刺すことがあるのだ。このとき人はカメムシに「噛まれた」と感じるかもしれない。
この口針で刺された場合、刺された部分がチクッと痛む。そして数時間〜数日ほど赤く腫れたり、かゆくなったりする。ただし毒性は強くなく、重症になることはほとんどない。
応急処置としては、すぐに水で洗ったり、冷やしたり、かゆみや腫れが強い場合は抗ヒスタミン系のかゆみ止めを使用すると良いという。
秋になるとカメムシは洗濯物にくっつきやすい。その理由はシンプルに暖かくて明るい布の匂いや日光のぬくもりに引き寄せられるからだ。
また柔軟剤の香りが植物の匂いに似ているとか、日当たりのいい場所を越冬前の虫が探しているとか、白や淡い色の布は視認性が高く、着地しやすいとかの理由もある。
秋から初冬にかけてカメムシは増えてくる。10月はちょうどカメムシが越冬する場所を探して動き回る時期なのだ。
対象に関する基本的な情報もあらかた頭に入り、一息つきたいところだが、このまま床に裏返しになったパンツと黒いカメムシくんを放置しておく訳にもいかないので、3枚くらい重ねたティッシュでカメムシくんを掴むと、玄関の外にそっと逃した。
パンツも股間が刺された記念だし縁起物なのでさっさと捨てることにした。そうこうしているうちに、ふと過去の苦い記憶が脳裏に呼び戻されていた。ずっと忘れていたはずなのに。
20代の頃、僕は両親と弟と一戸建ての家に暮らしていた。最寄駅は東急東横線の日吉駅。家族四人分の洗濯物は二階のベランダに干していた。
ある夏の日、僕はベランダに干してあったジャージのズボンが乾いているのを確認すると、すぐに履いた。
すると、右足のふくらはぎに激痛が走った。この時は尖った鋭い刺激に秒でジャージを脱ぎ捨てた。「いててて!」とふくらはぎの中心部を注視すると、そこにはクマバチがお尻からぶら下がっていた。
蜂のカラーパターンとフォルムからスズメバチではない事を確信すると、少し安堵のため息が出た。
そして次の瞬間、左右に身をよじらせながらフカフカの黄色いベストでも着ているようなボリュームのある物体を本能的に手で払っていた。
パンツ一丁のまま急いで階段を下り、一階の居間でテレビを見ていた母と弟に足を蜂に刺されたことを伝えると、弟は母の指示どおりに風呂場で僕のふくらはぎ目がけて放尿するという応急処置を完遂した。
それからしばらくの間、蜂に刺された記憶が鈍くなっていくまでの数ヶ月、神経質なくらい服を着る前にひっくり返して確認する癖がついていた。
またこれから股間の痛みが和らぐまでの間、チクリとした痛みの記憶が遠のくまでの数ヶ月、乾いた洗濯物を裏返す不毛な日々が始まる。そしてそれもいつの間にか忘れてしまう。
人は忘れっぽい。やはり痛みを避けるには用心深く、裏表をひっくり返していちいち確認するほかない。予期せぬ股間の痛みで思い出した記憶。この痛みは二十五年周期でやってくる。ふと窓の外へ目をやると浦上水源池の水面が10月の太陽光を必死に跳ね返そうとしていた。

