お疲れ様です!
コウです。
今回は、ぶっちゃけ、「お清めの塩っていらなくない?」って話です。
人生40年も生きてると、葬儀の1つや2つ参加する機会もあります。
だだでさえ、少子高齢化でお年寄りの人口増加は加速していってますよね。
これから、身の回りでそんな機会ももっと増えてくるのかななんて思ってます。
ところで、昔から疑問だったんだけど葬儀会場で「お清めの塩」ってもらうじゃないですか?
結婚する前は僕も親と同居していて、知り合いの通夜から帰宅して家に入ろうとすると、
「ちょっと、待て待て!塩!塩!」と当然のごとく母親に玄関先で止められ、我が家でも塩を振りかけられる儀式が行われていました。
「ん?ていうか、この慣習って何なんだろ?この塩かける儀式いらなくないか?」って、いつも頭の中に「?」が浮かんでいました。
世の中を見渡すと、昔からいろんな風習や慣習があります。
今回は、そんな「誰が考えたかわからない常識を疑ってみよう!」というお話です。
最近、出席したお通夜の式場ではお清めの塩が配られなかった

geralt / Pixabay
すごく最近の話で、ご近所の方のお通夜に出席したのですが、なんとその式場では、「お清め塩」が配られなかったんです。
だいたい、「香典返し」とかと一緒に入ってたりするでしょ。
こんなことは、初めてだったのでちょっとビックリしました。
でね、塩の代わりに「清め塩の枝折」って書いてある小さい紙が一枚入っていて、そこにはこう書かれていました。
「清め塩」の廃止について
葬儀の参列者に礼状とともに手渡されてきた「清め塩」は、ほとんどの葬儀においてなかば習慣化されてきましたが、この度、仏教の教えに照らし、これを廃止することに致しました。
仏教では、生と死は1つであると教えられています。
また、葬儀は、故人をいつくしみ、故人に感謝し、いのちの尊さを再確認する大切な儀式です。仏教では決して「死」を「けがれ」とすることはありません。
親しんできた方の最後のお別れに清めの塩を用いて、けがれたものとして別れていくのは何とも悲しいことです。従って、死をけがれたものとしてお清めする「清め塩」を廃止することにした次第でございます。
何卒ご理解たまわりますようお願い申し上げます。
はい、これです。
ドンピシャです。
これなんですよ、前から僕が疑問だったこと。
この小さな紙を見て、その通りだなと納得しました。
葬儀から帰ってきて、塩で体を清め、穢れ(けがれ)を払ってから家に入るという。
故人を弔ってきただけなのに、何で清める必要があるの?っていう、悪霊退散的な感じが、何か嫌だったんですよね。。。
そもそも、故人は「けがれ」たものじゃないだろって。
「いったい、誰がこの常識、習慣、慣習を考えた?」
でも、昔からある慣習で伝統で、これにはちゃんと意味があってやっていることだ。
って思っている方も多いと思いますし、そこは否定しません。
そこで、ネットでこの習慣?慣習?伝統?
の起源についてググってみたんですよ。
センシティブな話題なので、今まで調べたこと無かったんですけどね。
で、この塩で清めるって事には諸説ありまして興味深いものがあったので簡単に紹介しようと思います。
「メメント・モリ!」
お清めの塩について

minree / Pixabay
葬儀から帰宅した際に玄関先で塩を体に振りかけ身を清めるという行為。
この行為の由来なんですが、そもそも昔の日本では、病気や天災などの良くない事が起きた時に塩で身を清めるという風習がありました。
僕は、清めの塩の由来は「塩=死を」から来たのかな?
とか勝手に想像したりしてましたが、全然違ってました。
お清めの塩の由来

geralt / Pixabay
この塩を体に振りかけ清めるという行為をもっと深く掘ってみると、日本で古くから伝わる「古事記」にぶち当たります。
この古事記には、日本を作ったとされる神様「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」という夫婦が出てきます。
夫である「イザナギノミコト」は、妻の「イザナミノミコト」が亡くなった後、あの世の世界と言われている黄泉の国(よみのくに)に死んだ妻に会いにいきます。
そして、その黄泉の国でろくな目に合わなかったので、この世に帰ってくると日向の阿波岐原(現在の宮崎県)の海に入って黄泉の国の穢れ(けがれ)を清めたそうです。
僕は今、宮崎県に住んでいるのですが、この宮崎県にゆかりがある古事記の話は地元ネタっぽいですね。
まあ、たまたまですけどね。
お清めの儀式の簡略化

12019 / Pixabay
この海で身を清めた「イザナギノミコト」の話から、徐々にお清めの儀式が簡略化されていったと言われていますね。
どういう事かと言うと、神様でも良くないことがあったら海水で身を清めるのだなというところから、
- 海に入って身を清める
- 海が近くにないなら海に入る代わりに海で取れる海藻を体に巻いて清めよう
- 近くに海も海藻もないから、海で取れる塩を体に振りかけよう
この1~3のように身を清める儀式が簡略されていったとする説もあります。
海に入れば身を清められる。
といっても、葬儀をする場所のそばに必ず海があるとは限らないし日本全国の葬儀場を海辺に作るというのも話がおかしくなってくる。
しかも、葬儀をする時期が夏以外ならみんな風邪ひいちゃいますし、葬儀の度にいちいちみんなで海に入るのも、現実的ではありませんね。
まあ、海藻とかもありましたが、同じ効果を期待して海水でできている塩に落ち着いたのは当然な気がします。
そもそも葬儀には仏式と神道式の2つのやり方がある

qimono / Pixabay
お清めに塩を使う、使わないには宗教的な考え方の影響も深く関わっています。
みなさん、知ってました?
葬儀のやり方が大きく分けて2種類あることを。
ご存知の方も大勢いると思いますが、僕は知りませんでした。
今まで神道式の葬儀に行った事が無かったので。
葬儀に行くと、お坊さんがお経をあげているので仏教起源だとばかり思っていました。
無知は怖い、無知は罪ですね。
修行が足りてません。
仏教式の葬儀の考え方

Free-Photos / Pixabay
仏教における葬儀の考え方はというと、一番わかりやすい言い方をすれば死を穢れ(けがれ)と考えないということです。
というのも、仏教では葬儀は故人を極楽浄土に送るために行うもので、故人は仏のもとに行き安らかに暮らすという考えがベースになっています。
神道式の葬儀の考え方

JordyMeow / Pixabay
神道って言えば、僕らの神道のイメージって、やっぱり神社ですよね。
お正月に初詣(はつもうで)に出かけたり、神主さんがいて祝詞(のりと)を読み上げている。
そんなイメージです。
この神道の考え方では、葬儀は故人を家に留めて守護神とするための儀式と言われています。
また、先祖崇拝の考え方は神道が起源だそうです。
これにもビックリでした。
仏教よりも神道のが先だったなんて。
なぜ、神社で葬儀をしないのか?

TeroVesalainen / Pixabay
仏教は葬儀をお寺で行ったりしますが、神道の場合は神社で葬儀をすることはありません。
だから、葬儀は仏教がやるものだと、僕のように勘違いする者もいる。
では、なぜ、神社で葬儀は行われないのか?
これは、生と死は一体であると考える仏教と違い、神道は古くから死を穢れ(けがれ)と考えてきたからです。
なので、神社という神聖な場所に穢れを持ち込むのは良くないのだという。
この部分だけを切り取ってみると、神道ってなんか人に優しくないし、冷たくないか?
って思ってしまいますよね。
ですが、ここで勘違いしてはいけないことがあります。
それは、神道は故人を穢れとは考えていないということです。
というのも、神道が穢れと言っているものは、故人を死に追いやった原因である邪気のことです。
ここは、すごく勘違いしやすいかもですね。
すなわち、すべての厄(わざわい)の原因は邪気だという考え方ですね。
よく、風水的では良い気が流れているとか、悪い気がとか言ったりしますよね。
しかも、神社はパワースポットって言われかたもします。
確かに、この邪気が穢れの元であるという考え方もわからなくもないです。
僕には仏教的な考え方の方がしっくりくる

422737 / Pixabay
というわけで、今回は、いろんな意味で難しい題材である「お清めの塩」とそれに関わる「葬儀」について取り上げてみました。
死に関する考え方や価値観は、人や宗教、地域により様々で正解などありません。
そして、最近では葬儀に際して「お清めの塩」を配らない所も増えてきており、儀式に対する考え方も時代とともに変わってきているようです。
「塩を使って身を清めるもよし!」
「お清め自体をしないのもよし!」
最終的には、その物事や行為を自分がどう捉え、どう考えるかなのだと思います。
どちらが良い悪いということではなく、あくまで僕個人の感覚的なものですが、生と死は一体のもので死は穢れではないという、仏教の考え方の方がしっくりきます。
また、故人を弔う行為と「気」を結びつける考え方はよくわかりません。
なので、これからは、お清めの塩は振りかけません。
結局、何が言いたいかというと、「常識を疑え!」です。
以上です。
ちなみに、この記事の内容とは関係ないのですが、神社は雰囲気も良く、景色が綺麗なところも多いので気分転換しによく行ったりしてます。
あわせて読みたい

関連記事